第41話 灰色の空、紫の閃光


 浜松で自らが描くべき物語の輪郭を掴んだ彼は、西へ向かう衝動に駆られていた。次に乗せてくれたトラックは、彼を一直線に名古屋へと運んでくれた。

 愛知県に入り、名古屋高速の環状線を走る。車窓から見えるのは、灰色の空と、どこまでも続くコンクリートの構造物。東京とはまた違う、機能的で、巨大な工業地帯の威圧感が、彼にのしかかる。これまで旅で感じてきた、土地の歴史や自然の匂いは、ここでは希薄だった。

 トラックを降り、名古屋駅の前に立った時、彼はその人の多さと、無関心さに、再び東京と同じような孤立感を味わった。だが、もう心は揺らがない。彼には、追いかけるべき物語の光が、はっきりと見えている。


 その日の宿として、彼は大須の安宿に部屋を取った。古い商店街と、サブカルチャーが混じり合う、混沌とした街。彼は、その猥雑さの中に、わずかな安らぎを見出した。

 夜、彼は食事を取ろうと、宿の近くの小さなライブハウス兼バーの扉を開けた。中では、地元のバンドが、けたたましい音を鳴らしている。彼はカウンターの隅に座り、ただぼんやりとステージを眺めていた。

 バンドの演奏が終わり、客がまばらになった頃、ふと、隣に気配を感じた。

 「…それ、どこで手に入れたの」

 低い、少しだけハスキーな声。視線を向けると、そこに一人の女性が座っていた。

 黒い服に、無数のピアス。黒髪の間から、インナーカラーの鮮やかな赤紫色が覗いている。化粧気の薄い顔に、大きな瞳だけが、強い光を放っていた。彼女が見つめていたのは、彼が首から下げていた、小さな石のお守りだった。それは、旅の初めの方で、立ち寄った小さな神社の露店で、何となく手に入れたものだった。

 「…北海道の、小さな神社で」

 「ふうん。いい色してる」

 彼女はそれだけ言うと、手元のグラスに口をつけた。会話は、それで終わりかと思われた。

 だが、彼は、彼女の纏う空気が、この店の誰とも、そしてこれまで出会った誰とも違うことに、気づいていた。それは、全てを諦めたようなダウナーな雰囲気でありながら、同時に、世界の核心を静かに見つめているような、鋭い知性を感じさせた。


 「旅してるの?」と、今度は彼女の方から尋ねてきた。

 「はい。北海道から、鹿児島まで」

 「ヒッチハイク?」

 「ええ」

 「…バカだね」

 彼女は、フッと、まるで煙を吐き出すかのように笑った。だが、その言葉に、侮蔑の色はなかった。むしろ、どこか面白がっているような響きがあった。

 「あんたみたいのが、一番、世界の本当の姿を見るのかもね。フィルターなしで。痛い目にも遭うだろうけど」

 その言葉は、彼の旅の本質を、いとも簡単に見抜いていた。

 彼は、初めて、この女性に興味を抱いた。

 「あなたは、何を?」

 「私? …別に、何も。ただ、ここにいるだけ。世界の終わりを、特等席で眺めてる」

 彼女は、シオンと名乗った。年は、彼の一つ上だという。

 その夜、二人は、とりとめのない話をした。世界の不条理さについて、音楽について、そして、人が物語を求める理由について。話のテンポ、価値観、思考のプロセスが、まるでパズルのピースがはまるように、不思議なほど噛み合った。彼は、初めて、自分の内面を、何の飾りもなく語れる相手に出会った気がした。

 シオンは、彼の書こうとしている物語の話を、静かに聞いていた。

 「トラック運転手が、旅人を乗せる話ね…。面白いじゃん。あんた自身を主人公にするより、よっぽど。あんたは、カメラになればいいんだよ。ただ、映すだけ。判断も、解釈も、読者に委ねるの」

 それは、彼が漠然と感じていたことを、的確に言語化した言葉だった。

 気づけば、窓の外は白み始めていた。

 「…私、行くわ」

 シオンはそう言って、立ち上がった。

 「また、会えるか?」

 彼は、思わず引き留めていた。

 シオンは、少しだけ考えて、そして、初めて、はっきりと笑った。

 「…さあね。でも、この街は狭いから。世界の終わりは、まだ、もう少し先みたいだし」

 そう言い残して、彼女は朝の光の中に消えていった。

 灰色の街、名古屋。そこで出会った、紫の閃光。彼の物語は、思いもよらない、新たなスパイスが加わる予感を、強く孕んでいた。

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