第37話 湯けむりと、旅人の夜
夕闇が迫る箱根の山道を、トラックは力強いエンジン音を響かせながら登っていく。窓の外は、深い森の闇。カーブを曲がるたびに、ヘッドライトが、濃い緑と、そこに立ち込める霧を、一瞬だけ白く照らし出した。
「この先にあるんだ。俺の、まあ、行きつけみてえな場所がな」
リョウさんが向かったのは、観光客で賑わう温泉街から少し外れた、山の中腹にひっそりと佇む一軒の宿だった。古い木造の建物で、大きな看板もない。知る人ぞ知る、といった風情だ。
「ここはな、昔から、この天下の険を越える旅人たちが、体を休めた場所なんだ。トラック野郎も、昔はよく世話になった」
宿の主人は、リョウさんの顔を見るなり、「おお、リョウさん、久しぶりじゃないか」と、家族を迎えるように笑った。
二人はまず、源泉かけ流しの露天風呂へと向かった。
岩造りの湯船に体を沈めると、熱い湯が、旅の疲れを芯から溶かしていくようだった。硫黄の匂いが立ち込め、見上げれば、満天の星空が広がっている。北海道で見た星空以来の、遮るもののない、本物の夜空だった。
「どうだ、極楽だろ」
「はい…生きててよかったって思います」
「だろ? 人間、美味いもん食って、いい湯に浸かれば、大抵のことはどうでもよくなるんだ」
二人はしばらく、言葉もなく、ただ湯に身を委ねていた。湯けむりの向こうに、互いの旅路をねぎらうような、穏やかな空気が流れていた。
風呂から上がると、宿の主人が、心のこもった山の幸料理を振る舞ってくれた。岩魚の塩焼き、山菜の天ぷら、そして、きのこがたっぷり入った味噌汁。一つ一つが、滋味深く、体の隅々まで染み渡っていく。
「うめえだろ。派手な料理じゃねえが、ここの水と、山の恵みで作った、本物の味だ」
リョウさんは、地酒の熱燗をちびりとやりながら、満足そうに言った。それは、彼が新潟で学んだ「土地の味は、土地の物語だ」ということを、改めて実感させてくれる夕食だった。
その夜、二人は、古い畳の部屋で、布団を並べて横になった。
障子の向こうから、虫の声と、遠い沢の音が聞こえてくる。
「なあ、兄ちゃん」
暗闇の中で、リョウさんが静かに言った。
「俺は明日、名古屋へ向かう。ここからは、東海道を下るだけだ。お前さんは、どうする? このまま、一緒に来るか?」
その問いに、彼は少しだけ考えた。リョウさんと一緒の旅は、楽しく、学びも多い。このまま、彼のトラックで西へ向かうのは、とても魅力的な選択肢だった。
だが、彼は首を横に振った。
「リョウさん、本当にありがとうございました。でも、俺はここで降ります」
「…そうか」
リョウさんは、何も聞かなかった。ただ、彼の決意を尊重するように、短く答えた。
彼には、確かめたいことがあった。この箱根の関所を、自分の足で越えてみたい。そして、ここから先、再び一人で道に立った時、自分が何を感じ、どんな言葉を見つけるのか、試してみたかったのだ。
リョウさんという最高の相棒と出会えたからこそ、彼は、もう一度一人で歩き出す勇気を得たのかもしれない。
翌朝、宿の前で、二人は別れの時を迎えた。
「これを、持ってけ。道中の腹の足しにしな」
リョウさんは、宿の主人に作ってもらった、大きなおにぎりの包みを彼に手渡した。
「リョウさん、本当に、何から何まで…」
「いいってことよ。俺も、久しぶりに若い頃に戻ったみてえで、楽しかったぜ。達者でな、作家さん。いいもん、彫れよ」
最後に、仏壇職人と同じ言葉を残して、リョウさんはトラックに乗り込んだ。
大きな車体が、山道を下っていく。彼が見えなくなるまで、ずっと手を振り続けていた。
一人残された彼は、リュックを背負い直した。手の中には、まだ温かいおにぎりの包み。胸の中には、リョウさんからもらった、たくさんの温かい言葉。
目の前には、天下の険、箱根の山道が続いている。
彼の旅は、また、新しい一歩を踏み出そうとしていた。
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