第32話 優しい言葉、そして距離
谷中の喫茶店で、ミオから「優しい言葉だね」と言われた瞬間、彼の心の中で、何かが確かに変わった。それは、旅の始まりから彼を縛っていた、承認欲求や自己顕示欲という名の、見えない鎖が解けていくような感覚だった。
これまでの自分は、誰かに、特にミオに「すごい」と思われたくて、言葉を飾ろうとしていたのかもしれない。だが、彼女が認めてくれたのは、彼の技巧ではなく、名もなき人々へ向けられた、彼の眼差しの優しさだった。
その事実は、彼を過去の呪縛から、そっと解放してくれた。
二人は、谷中の墓地を並んで歩いた。夕暮れの光が、古い墓石の上に、長い影を落としている。
「私、時々ここに来るんだ」とミオが言った。
「ここに来ると、なんだか落ち着く。みんな、いろんな人生を生きて、ここで静かに眠ってるんだなって思うと、自分の悩みとか、ちっぽけに思えてきて」
それは、彼が山寺で感じた静寂や、巣鴨で見た共同体の温かさと、どこか通じる感覚だった。彼女もまた、この巨大な都市の中で、自分だけの「聖域」を見つけ、バランスを取っていたのだ。
彼は、ミオのことを、もう一方的に「守られた場所にいる人間」だとは思わなかった。彼女もまた、自分の足で立ち、悩み、そして自分の方法で世界と向き合っている、一人の対等な人間なのだ。
「君は、これからどうするの?」ミオが尋ねた。
「…旅を、続けるよ」
彼は、迷いなく答えた。
「まだ、見ていない景色がたくさんある。まだ、聞いていない声がたくさんある。それを全部、自分の中に取り込むまで、この旅は終われない」
その言葉に、嘘はなかった。ミオへの想いが消えたわけではない。だが、その想いは、彼を縛る鎖ではなくなっていた。むしろ、彼がより良い書き手になるための、遠くで静かに輝く、道標のようなものに変わっていた。いつか、この旅を終えて、胸を張れる作品を書き上げた時、その時は――。
「そっか」
ミオは、少しだけ寂しそうに、でも、どこか誇らしげに微笑んだ。
「君らしいね。応援してる。…でも、東京にいる間は、たまに連絡してよ。また、君が書いたもの、読ませてほしいから」
「ああ、必ず」
その約束は、かつて感じたような重荷ではなかった。それは、遠い未来で再会するための、温かい約束手形のように感じられた。
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