第30話 コンクリートの谷間の空
ミオと別れた後、彼は神保町の街をあてもなく彷徨った。古書の匂いはもう感じない。彼の頭の中は、二年ぶりに再会した初恋の相手のことで、飽和していた。彼女の笑顔、声、そして、何気なく告げられた「別れた」という事実。その一つ一つが、旅で得たはずの静かな自信を、根こそぎ揺さぶっていく。
彼は、自分が旅に出た理由を、もう一度問い直していた。
机の上で行き詰まったから。新しい景色が見たかったから。それは、嘘ではない。だが、その根底には、何も成し遂げられないまま、故郷の街で彼女の幸せを遠くから眺めているだけの、惨めな自分から逃げ出したいという気持ちがあったのではないか。
旅をして、様々な人に出会い、言葉を彫る覚悟もできた。作家として、人間として、少しは成長できたはずだった。なのに、彼女を前にした自分は、高校時代と何も変わっていなかった。ただ、うろたえ、空回りするだけだ。
――俺は、この旅で、一体何を得たというんだ。
自己嫌悪が、アスファルトの照り返しのように、彼の心を焼いた。
彼は、その日の宿を探す気にもなれず、新宿へと向かった。日本で最も高いビルがそびえる、欲望と喧騒の中心地。そこで、この街の巨大な匿名性の中に、もう一度身を投じてみたかった。自分の悩みなど、この雑踏の中ではちっぽけなものだと思いたかったのかもしれない。
都庁の展望室に登る。眼下に広がるのは、どこまでも続く、コンクリートの海だった。夕暮れの光が、ビル群を鈍い灰色に染めている。その景色には、美しさも、荘厳さもなかった。ただ、巨大な生き物が、無機質に呼吸を繰り返しているような、圧倒的な現実だけがそこにあった。
見下ろす街のどこかで、ミオもまた、大学の授業を受け、友人と笑い、バイトに励んでいるのだろう。彼女は、この巨大な街で、自分の足でしっかりと立っている。一方の自分は、ヒッチハイクという、他人の善意に頼らなければどこへも行けない、根無し草だ。
その差が、どうしようもなく彼を打ちのめした。
夜、彼は歌舞伎町のネオンの洪水の中を歩いていた。客引きの声、酔客の笑い声、けたたましい音楽。あらゆる欲望が渦巻き、露わになっている。彼は、そのどれにも属することができず、ただの異物として、その間をすり抜けていく。
公園のベンチに座り、空を見上げた。ビルの隙間から見える空は、ひどく窮屈で、星一つ見えなかった。
北海道で見た、満天の星空を思い出す。あの時、自分は無限の可能性を信じていた。だが、このコンクリートの谷間の底で見る空は、彼の限界を告げているようだった。
その時、ポケットのスマホが震えた。
画面には「ミオ」からのメッセージ。
『今日、なんだか緊張してた? 昔と変わらないね。でも、旅の話をしてる時の君、すごくいい顔してたよ。よかったら、今度もっと聞かせて』
その短い文章を、彼は何度も、何度も読み返した。
彼女は、見抜いていたのだ。彼がうろたえ、空回りしていたことも。そして、同時に、彼が旅で得たものの輝きも。
彼は、自分の顔が熱くなるのを感じた。それは、自己嫌悪から来るものではなかった。
――まだ、終われない。
この街で、彼女の前で、胸を張れる自分になるまで。この旅を、中途半端に終わらせるわけにはいかない。
彼は、返信を打った。
『ありがとう。もう少し、この街を見て回ることにした。面白いものが見つかったら、また連絡する』
鹿児島への旅を、一時中断する。それは、逃げではない。彼が、初めて自分の過去と、そして彼女自身と、本気で向き合おうと決意した、新しい旅の始まりだった。
彼は立ち上がり、ネオンの街を背にした。コンクリートの谷間の底にも、確かに、彼が進むべき道は続いていた。
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