第28話 古書店の匂いと、過去のインク
ファミリーレストランで仮眠を取り、夜明け前の街に出た彼は、自分がどこへ向かうべきか、全く分からなくなっていた。これまで旅を導いてくれた直感や好奇心は、東京の巨大なノイズの中で、その感度を失っていた。
ただ、漫然と歩く。皇居の森の深い緑だけが、このコンクリートジャングルの中で、唯一の安らぎを与えてくれる。やがて、彼は神保町という地名に行き当たった。古書店街。その言葉に、わずかに心が動いた。
まだシャッターが閉まっている店が多い中、彼はただ、その街の空気を吸うように歩いた。アスファルトの匂いに混じって、古い紙とインクの、懐かしい匂いがする。それは、ミサトの工房で感じた、和紙の生命力に満ちた匂いとは違う、時間を吸い込んで静かに眠る、知識の匂いだった。
一軒の、古びた店が、もう店を開けていた。吸い込まれるように中に入る。天井まで届く本棚に、びっしりと本が詰まっていた。その背表紙を眺めているだけで、無数の物語が、声なき声で語りかけてくるようだった。
彼は、文学の棚の前で足を止めた。そして、一冊の本に、手が伸びる。それは、彼が作家を志すきっかけとなった、今はもう故人である作家の、デビュー作だった。何度も読んだはずなのに、その古びた装丁が、まるで初めて出会う宝物のように思えた。
レジで会計を済ませ、店の外に出る。近くの公園のベンチに座り、彼はその本を開いた。
インクの匂い、ざらりとした紙の感触。そこに記された言葉は、彼が知っているはずの言葉なのに、この神保町の空気の中で読むと、全く違う響きを持って心に届いた。
――この作家も、かつてこの街のどこかで、孤独と向き合い、言葉を彫り、物語を支えようと、もがいていたのではないか。
そう思った瞬間、彼は自分が一人ではないような気がした。時代は違えど、同じように言葉と格闘した無数の先人たちが、この街には眠っている。その声なき声に耳を澄ませば、何かが見つかるかもしれない。
その時だった。
「…もしかして、君?」
不意にかけられた声に、彼は顔を上げた。
目の前に立っていたのは、一人の女性だった。ショートボブの髪、少し大きめの眼鏡、そして、何よりも、彼の記憶の奥深くに刻み込まれている、その瞳。
「…ミオ?」
彼の口から、信じられない、という響きとともに、愛称がこぼれ出た。
彼女は、彼の初恋の相手だった。
「やっぱり。何してるの、こんなところで」
ミオは、驚きと懐かしさが入り混じった、柔らかな笑顔を浮かべた。
高校二年の秋。バスケ部のキャプテンと付き合い始めたと、友人から聞かされた日のことを、彼は鮮明に思い出した。胸に穴が空いたような、どうしようもない喪失感。その感情の行き場を見つけられず、彼は半ば逃避するように、本格的に小説を書き始めたのだ。彼女に読ませるためではない。彼女がいる現実から目を逸らすための、自分だけの避難場所として。
「旅をしてるんだ。北海道から、ヒッチハイクで」
「ヒッチハイク!? 全然変わらないね、君は。昔から、突拍子もないことばっかりしてたもんね」
ミオは、この近くの大学に通っていて、レポートの資料を探しに神保町へ来たのだという。
高校を卒業して以来、二年ぶりの再会。彼は、自分の心臓が、旅に出てから一度も感じたことのない速さで高鳴っているのを感じた。それは、旅で出会った人々との、温かくもどこか一期一会を前提とした関係とは全く違う。彼の過去と、現在とが、予期せぬ形で、この東京の真ん中で結びついてしまった瞬間だった。
「よかったら、お昼でも食べない? 聞きたいこと、いっぱいあるよ」
ミオの誘いに、彼は頷くことしかできなかった。
旅は、彼を成長させ、変えてきたはずだった。だが、彼女の前にいる自分は、ただの、想いを告げることすらできず、自分の殻に閉じこもることでしか現実と戦えなかった、昔の臆病な少年に戻ってしまったかのようだった。
古書店のインクの匂いの中で、彼の旅は、全く新しい、そして、最も厄介な物語のページを、否応なくめくり始めていた。
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