第3話 夏祭りの夜
八月十五日の朝は、嫌になるほどの快晴だった。
俺は部屋の窓を開け放ち、じっとりと肌にまとわりつく熱気の中で、黙々とカメラの手入れをしていた。ブロワーでレンズの埃を飛ばし、クリーニングクロスでボディを磨き上げる。それはまるで、決戦前の武士が刀を研ぐような、神聖な儀式にも似ていた。
心がざわついて、落ち着かなかった。
夏祭り。
そこに、俺は今から向かおうとしている。しかも、昨日今日出会ったばかりの、
自分でも、どうかしていると思う。
胸の奥で疼く罪悪感と、それに相反する淡い期待。二つの感情が混ざり合い、俺の思考をぐちゃぐちゃにかき乱す。
それでも、行くと決めたのだ。
ファインダー越しではない、この目で。あの少女が笑う姿を、見てみたい。ただ、それだけだった。
夕暮れ時。茜色に染まった空が夜の藍に溶け始める頃、俺は待ち合わせ場所の神社へと続く、長い石段を登っていた。首から下げたカメラの重みが、やけに心地よい。
境内にはすでに大勢の人が集まり、祭囃子の賑やかな音が耳に届く。その喧騒の中に、見慣れた声を見つけた。
「おーい、ハルト! こっちこっち!」
手を振る
息を、呑んだ。
紺色の生地に、白い朝顔が描かれた浴衣。
いつもは下ろしている髪を、うなじのあたりで緩く結い上げている。普段よりも少しだけ大人びて見えるその姿に、俺は一瞬、言葉を失った。
「よ、よう」
「遅いぞハルト。罰として、そこのリンゴ飴おごりな」
「なんでだよ」
軽口を叩きながらも、俺の視線は自然と彼女の方へと吸い寄せられてしまう。
目が合った。綾瀬さんは、少しだけはにかんだように、小さく笑った。
「水瀬くん、こんばんは」
「……ああ、こんばんは」
「そのカメラ、やっぱり持ってきたんだね」
「まあ、一応な」
「そっか」
彼女は嬉しそうに頷くと、くるりと背を向けた。「じゃあ、行こっか」
その何気ない仕草だけで、俺の心臓は簡単に音を立てた。夏の熱気と人々の喧騒が、急に遠い世界のことのように感じられる。
俺の夏は、今、確かに始まろうとしていた。
◇
夏祭りは、まさに熱狂の渦だった。
射的、金魚すくい、たこ焼きのソースが焼ける香ばしい匂い。色とりどりの浴衣を着た人々が、楽しげな笑い声を上げながら行き交っている。
悠真たちは、水を得た魚のように人混みの中へと消えていった。俺と綾瀬さんは、少しだけその後ろを、ゆっくりと歩いていた。
「すごい人だね」
「ああ……。この町の一番大きな祭りだからな」
「水瀬くんは、あんまりこういうの、好きじゃない?」
不意に、核心を突くようなことを言われて、俺はどきりとした。
「……なんで?」
「なんとなく。さっきから、ずっと何かを探してるみたいな顔してるから」
彼女には、お見通しらしい。
俺は曖昧に笑って誤魔化した。
「別に、そんなことないよ」
嘘だ。俺は探している。この賑わいの中に、もういないはずの妹の姿を。あの日の幻影を、無意識に追いかけてしまっているのだ。
「あ、見て、金魚すくい」
綾瀬さんが、一つの屋台を指差した。子供たちが、破れやすいポイを片手に、水槽の中の金魚と格闘している。
「やるか?」
「ううん、見てるだけでいい。……なんだか、似てるなって」
「何が?」
「私たちみたいだなって。あの子たちも、私たちも、すぐに破れちゃうって分かってるもので、何かをすくい上げようとしてる」
彼女の言葉は、時々ひどく詩的で、そしてひどく物事の本質を突いているように聞こえた。
「……綾瀬さんは、何かすくい上げたいものでもあるのか?」
「どうだろうね」
彼女は答えず、ただ水槽の中を優雅に泳ぐ金魚たちを、じっと見つめていた。その横顔を、俺は衝動的に撮りたくなった。
でも、指が動かない。
人を撮るのは、怖い。特に、こんな風に心を許してしまいそうな相手を撮るのは。ファインダー越しにその人の本質に触れてしまったら、俺はもう、元には戻れないような気がした。
「……撮らないの?」
俺の葛藤を見透かしたように、綾瀬さんが言った。
「……別に」
「撮ってよ」
「え?」
「私のこと、撮って。水瀬くんの写真、見てみたい」
真っ直ぐな瞳。断ることなんて、できそうになかった。俺は観念して、ゆっくりとカメラを構えた。
ファインダーを覗き込む。
そこにいたのは、クラスの人気者でも、ミステリアスな転校生でもない。
ただの、
夜店の明かりに照らされた、少し不安げな、それでいて何かを期待しているような、そんな複雑な表情。
俺は、息を詰めて、シャッターを切った。
カシャ。
その小さな音は、祭りの喧騒に掻き消された。けれど、俺の心には、確かに刻み込まれた。
これが、俺が彼女を撮った、最初の写真だった。
◇
「はぐれちゃったね、佐伯くんたちと」
「ああ、みたいだな」
気づけば、俺と綾瀬さんは二人きりで、神社の裏手にある、少し開けた場所に来ていた。ここなら、少しだけ人の声も遠い。虫の音が、涼しげに響いていた。
眼下には、俺たちが住む町の夜景が広がっている。宝石箱をひっくり返したような、ありふれているけれど、美しい光の海。
「綺麗……」
綾瀬さんが、ぽつりと呟いた。
「こんな場所があったんだね、この町に」
「まあな。穴場なんだ」
俺たちは、近くのベンチに腰を下ろした。心地よい夜風が、火照った肌を撫でていく。
沈黙が、気まずくない。それが、不思議だった。
「水瀬くんは、どうして写真を撮ってるの?」
唐突な質問だった。
俺は少しだけ迷った後、正直に話すことにした。どうしてか、この人には話してもいいような気がしたのだ。
「……妹がいたんだ。昔」
「……」
「俺の撮る写真が好きだって、いつも言ってくれてた。だから、いつか、あいつが世界で一番だって驚くような写真を撮ってやろうって、そう思ってた」
「……そっか」
「でも、もういない。……夏祭りの日に、事故で」
そこまで言って、俺はハッとした。なんてことを話しているんだ。こんな、初対面に等しい相手に。
「ごめん、変な話して」
「ううん」
綾瀬さんは、静かに首を横に振った。
「ありがとう、話してくれて。……水瀬くんが、どうしてそんなに優しいのに、寂しい目をしているのか、少しだけ分かった気がする」
彼女の言葉は、すっと俺の心に染み込んできた。誰にも理解されないと思っていた、この心の深い場所にある澱を、彼女はいとも簡単に見抜いてみせた。
その時だった。
ヒュルルルル……、と空気を切り裂くような音がして、夜空に大きな光の華が咲いた。
ドン、という音が、少し遅れて腹の底に響く。
花火が、始まったのだ。
次々と打ち上げられる色とりどりの光が、俺たちの顔を照らし出す。
綾瀬さんは、空を見上げて、うっとりとした表情を浮かべていた。その瞳に、大輪の花火が映り込んでいる。
綺麗だ、と思った。
花火が、じゃない。
花火を見上げる、君の横顔が。
俺は無意識に、カメラを構えていた。
もう、ためらいはなかった。
カシャ。カシャ。カシャ。
夢中でシャッターを切り続けた。
この一瞬を、永遠に閉じ込めてしまいたい。そう、心の底から思った。
今年こそ、最高の夏になるかもしれない。失われたものを取り戻すことはできなくても、新しい何かを、この手で掴むことができるかもしれない。
そんな希望が、夜空の花火みたいに、俺の胸の中で弾けていた。
やがて、最後のひときわ大きな花火が夜空を染め上げ、静寂が戻ってきた。
「……終わっちゃったね」
「ああ」
言いようのない達成感と、少しの寂しさ。
その余韻に浸っていると、悠真から『お前らどこいんだよ! そろそろ帰るぞー!』とメッセージが届いた。
「戻ろうか」
「うん」
俺たちは立ち上がり、再び喧騒の中へと戻っていった。
神社への帰り道。悠真たちと合流し、他愛ない話をしながら、みんなで石段を下りていた。
「いやー、マジ最高だったな、今年の花火!」
「綾瀬さん、浴衣マジ似合いすぎだって!」
「やめてよ、そういうの」
笑い声が響く。俺も、自然と笑みがこぼれていた。こんな風に心から笑えたのは、いつぶりだろうか。
綾瀬さんは、俺の少し前を歩いていた。
彼女が、ふと、こちらを振り返る。
そして、今日一番の、満開の笑顔で、こう言ったんだ。
「水瀬くん、今日は誘ってくれて――」
――ありがとう。
そう続くはずだった言葉は、悲鳴によって掻き消された。
誰かが、バランスを崩した綾瀬さんの背中を、ぐらりと押した。
いや、押したんじゃない。ただ、人混みの中で足がもつれただけだ。
悪意なんて、どこにもなかった。
ただ、運が悪かった。それだけ。
「――え?」
スローモーションのようだった。
彼女の体が、ゆっくりと傾いでいく。
伸ばした俺の指先が、彼女の浴衣の袖を、ほんの僅かにかすめる。
ゴッ、という鈍い音。
そして、人々の絶叫。
全てが、現実感を失っていた。
石段の下。
ぐったりと横たわる、紺色の浴衣。
ありえない角度に曲がった首。
その周りに、じわりと広がっていく、暗い、暗い、赤。
「…………あ」
声が出なかった。
指一本、動かせなかった。
まただ。
また、俺は、守れなかった。
目の前で、大切なものが、壊れていくのを、ただ見ていることしか、できなかった。
遠ざかっていく意識の中で、俺は、あの日の妹の姿を思い出していた。
冷たい川の水。
動かなくなった、小さな体。
絶望という名の、黒い闇が、再び俺の世界を塗りつぶしていく。
――八月十五日、午後九時四十七分。
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