0025. 買い付け交渉、百の魂に値段がつく日

 翌日の巳の刻、約束の刻限より少し前に、私の「ひきこもり人員計画」の実行役となる連雀商人、光賀仁右衛門がやってきた。

 私は母上の腕に抱かれながら、父上の前に平伏するその男を赤子の未熟な視力でじっと観察する。

 年は二十代半ばだろうか、まだ若いが、その立ち居振る舞いには、歳の割には不相応なほどの自信と、決して相手に底を見せぬ抜け目のなさが滲み出ていた。 

 一見、質素な麻の着物だが、その生地は上質で動きやすさと品格を両立させている。

「里見様、仰せの通り、光賀仁右衛門、罷り越しました。本日はお声がけいただき、誠に光栄の至りに存じます。早速ではありますが、どのような商いも、この安房一の商人、光賀にお任せください」

(安房一の連雀だと嘯く態度、これは相当なやり手ね。言葉の端々に野心が透けて見えるわ)

 私はごくりと、自分でも気づかぬうちに喉を鳴らした。

 主演・里見義実、脚本・監督・里見真里による、壮大な茶番劇の幕開けだ。

 父上は昨日、母上と打ち合わせた通りの完璧な脚本で光賀に買い付けの話を持ち掛けた。その表情には武将としての苦悩が浮かんでいる。

「……うむ。仁右衛門、そなたの腕を見込んでの頼みがある。実は我が里見家も、いつまでもこの安房の地に安穏としておれるわけではない。上杉方の動きも気にかかる。今後の北進に備え、将来の兵とするための、若く、そして忠実な駒を今のうちから集めておきたいのだ」


「……将来の兵でございますか」


「そうだ。特に人売りが盛んだと聞く、甲斐の国でな。親を失い、行く当てのない孤児を我らの手で育て上げたい」

 その言葉を聞く光賀の目がギラリと商人のそれに変わるのを私は見逃さなかった。大きな商いの匂いを嗅ぎ取ったのだ。


「なるほど……甲斐の国の孤児でございますか。承知いたしました。かの地は武田様の治世ではありますが、戦も絶えませぬ。確かに親を亡くした子は掃いて捨てるほどおりましょう。して、人数はおよそ何名、お代はお一人あたり、いかほどでお考えで?」

 ここからが本番だ。


「うむ。一人あたり、五百文でどうじゃ」

 父上が切り出す。米一俵が買えるか買えないか、という値段。あまりにも安い。

 その瞬間、私は母上の膝の上で、彼女の指先がほんの僅かに、トントンと私をあやすように動いたのを感じた。監督からの「GOサイン」だ。

 案の定、光賀は眉間に深い皺を寄せた。


「里見様、それはあまりに……。いかに孤児とはいえ、甲斐からこの安房まで連れてくるとなりますと、道中の食費や諸経費もかかります。五百文では、正直なところ、商いとして成り立ちませぬ」

 そこからの流れは、昨夜の密談で聞いた通りだった。


「ふむ……。では、七百文。これ以上は出せぬ」

 父上が渋々といった体で値上げを口にする。

 光賀はなおも食い下がる。だが、ここで母上が、慈母のような微笑みをたたえて口を挟んだ。


「光賀殿、お気持ちは分かりまする。なれど、これも未来への種蒔き。殿も苦渋の決断なのです。それに子供たちを救うという慈悲の行いでもあります。そこをなんとか、お汲み取りいただけませぬか」

 母上の絶妙な助け舟に光賀の表情がわずかに揺らぐ。


「奥方様……。しかし、それでは……」


「仁右衛門。そなたの働きに期待して、お情けで、さらに百文上乗せしよう。八百文。これで手を打て」


「……ありがたきお言葉。ですが、あと一声……」


「しつこい男よ。……ならば、こうしよう。甲斐から安房までの寺社に世話になろう、その世話代を『寄進』という名目でさらに二百文を追加する。これでどうだ。これ以上の譲歩はないぞ」

 子供の命に、値段が付けられていく。

 一人、五百文。七百文。そして、八百文。

 それはまるで、米や魚を取引するのと何ら変わらない、日常的な商いの風景だった。私の目の前で人の尊厳が数字に置き換えられ、取引されていく。

 最終的に、一人あたり一貫文という、昨夜の脚本通りの金額に着地した。


 光賀は、父上の「気前の良さ」と母上の「慈悲深さ」にすっかり感激しているようだった。彼は知らない。その全てが彼を気持ちよく働かせるための完璧に計算された芝居だということを。


「里見様! 奥方様! かくなる上は、この光賀仁右衛門、身命に賭してご期待に応えてみせまする! それに里見水軍の船までお貸しくださるとは! この御恩、決して忘れませぬ!」

 深々と頭を下げ、何度も礼を言う光賀を見ながら、私は冷たい汗が背中を伝うのを感じていた。


(違う、違うんだ光賀さん……! あなたは今、見事に掌の上で転がされているだけなんだ!)

 吐き気がする。目の前の光景がぐにゃりと歪み、耳鳴りがする。これが、この時代の当たり前。前世で当たり前だった「人権」という概念は、ここには存在しない。


「では、百人ほどを目安に頼む。これ着手金だ。二十貫ある」

 父上が差し出した銭袋が、カシャン、と重い音を立てて畳の上に置かれる。

 百の魂の値段。百の人生の契約金。その金属音が私の小さな胸に、ずしりと重くのしかかった。


「このご期待、必ずや!」

 希望に満ちた顔で退出していく光賀の背中を、私はただ黙って見送ることしかできなかった。

 部屋には、父上と母上、そして私の三人だけが残される。

 父上は「これで、第一歩は踏み出せたな」と満足げに頷き、母上は「ええ。あとは、あの子たちが無事にこの地に着くのを祈るばかりです」と静かに微笑んでいる。

 この二人にとっては、完璧な交渉だったのだろう。里見家のため、そして姫御子である私のため。

 だが、私にとっては違う。

 今日この日、私の知らない百人の子供たちの運命が、私と、そして一本の、決して切れることのない細い糸で結ばれてしまった。

 私は、彼ら彼女らの顔も名前も知らない。でも、誓う。

 この交渉の場に居合わせ、その魂の値段を知ってしまった者として、私には責任がある。


(待っていて。私が必ず、あなた達を守るから。奴隷としてではなく、私の最初の『家臣』として、私の最初の『民』として、胸を張って生きられる場所を作るから。こんな狂った世界の理不尽から、絶対に、絶対に救い出してみせるから)

 その日、私の「ひきこもり計画」は、単なる個人的なスローライフの夢から百の魂を背負う、重い覚悟へと変わったのだった。

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