0019. 焦りは禁物だが、父はキレた

 母上の腕の中は温かい。柔らかな肌の感触と穏やかな心音が心地よい。聞こえてくるのは、大人たちの少し硬い声での会議。どうやら、私の将来に関する作戦会議はまだ続いているらしい。

 父上が、氏兼叔父上(ミスター・ボイス)とお兄様(若様)に未来の役職について説明しているらしかった。

「……氏兼には、社を司る宮司として、要となってもらう。社の守りは、すなわち里見家の守り。その重責、氏兼以外には任せられぬ。

 そして、二郎太郎。そなたには出仕として、次代の里見家を支える礎を築いてもらいたい」

 父上の言葉には、確かな期待がこもっていた。まあ、私にはまだ関係のない話だ。心地よい眠気が再び私を誘う。

 その穏やかな午後の空気を鋼を裂くように引き裂いたのは叔父上の怒声だった。


「とっ、殿! 何故に我らが社に籠らねばなりませぬか! 我は里見家の一門、二郎太郎様は御家の大切な男子にございますぞ! それを武家ではなく神官の道に入れと仰せか!」


 その悲痛な声にお兄様も涙ながらに続く。

「父上……! おれは廃嫡されるのですか……? もうおれは不要になったのですか!? 御神託を偽り、おれたちを家から追い出すおつもりか!」

(え……?)

 二人の悲痛な叫びに私の眠気は完全に吹き飛んだ。さっきまで忠誠を誓っていたはずなのに、どうしてこんなことに? 話が全く見えない。廃嫡? 追い出す? 父上の話は、むしろ大抜擢に聞こえたけど。


 部屋の空気が急速に冷えていくのが肌で分かる。母上の腕が私を抱く力にぎゅっとこもった。

 そして、父上が口を開いた。

 その声は雷鳴のような怒声ではなかった。むしろ、冬の湖面のように静かで氷のように冷たい声だった。

「……馬鹿者どもが」

 ぞくり、と全身の産毛が逆立つほどの冷気。それは単なる怒りではない。侮辱され、裏切られた者の底なしの失望から来る静かな激情。


「儂の話を最後まで聞かず、あまつさえ御神託を謀り事と抜かすか。儂の真意を汲もうともせず、己の保身と憶測で、この場を汚すか。先ほどの忠誠の言葉は、その程度のものか。……失望したぞ、氏兼。二郎太郎」

 空気が凍りついた。父上の視線がまるで抜き身の刃のように二人を射抜いているのが、ぼんやりとした私の視界でも分かった。肌を刺すような威圧感に呼吸さえままならない。


「……その方らは、この場で腹を切れ」

――腹を切れ? はらをきれ。セップク。切腹。

 その言葉の意味を理解した瞬間、私の思考は真っ白になった。

(嘘だ。何かの聞き間違いだ。いくらなんでも、自分の一門と実の息子にそんな……!)

 前世の記憶が警鐘を鳴らす。これはドラマじゃない。ゲームでもない。人が本当に死ぬ世界なんだ、と。

 父上の纏う気は紛れもない本気のそれだった。殺気だ。純度100%の命を刈り取る意志。

「介錯は儂がしてやる。武士としてその覚悟もできぬと言うなら、この場で斬り捨てるまで」

 部屋に満ちる死の匂いに誰も動けない。叔父上とお兄様が蒼白な顔でわなわなと震えている。もう限界だった。


「ふ、ふえぇぇぇええええええん! いやぁぁあああ! うわぁぁあああん!」

 私の赤ん坊としての本能が叩き出す、全力の泣き声。

 恐怖と混乱でただ泣き叫ぶことしかできなかった。死にたくない。誰も死んでほしくない。その一心だった。

 その泣き声に、はっと我に返ったように母上が動いた。

「お前様!」

 母上は私を抱きしめて優しくあやしながら、しかし毅然とした声で父上を諌める。


「御神託を謀りと言われ、ご立腹は重々お察しいたします。ですが、いきなり腹を切れ、とはあまりに早計ではございませぬか。この者たちの愚かさは、後ほどじっくりと諭せばよいこと。お前様、武将としては正しいのかもしれませぬ。しかし、一門の当主として、父として、その裁きはあまりに酷ではございませんか」

 母上の言葉は静かだが、凍てついた空気を溶かす不思議な力を持っていた。


「……それに琴がこれほどまでに怖がっております。未来のある里見家の姫に血族同士が殺し合う姿を見せて何とするのですか。これでは神託に泥を塗るも同然にございますぞ」

 母上の言葉に父上の殺気が少しだけ和らぐ。


 叔父上とお兄様はその隙を逃さなかった。蜘蛛の子を散らすように床に額をこすりつけて命乞いを始める。

「も、申し訳ございませぬ! 殿のお言葉を疑ったわけでは……! ただ、あまりに突然のことで心が追いつかず……!」


「ち、父上! 弟か妹が生まれれば、私はお役御免だと皆が噂しておりました……! その不安から早合点を……! どうか、どうかお許しを……!」


「……今さら、言い訳か。嘆かわしい」

 父上は冷たく言い放ったが、その声には先程までの殺意は消えていた。

 最終的に母上の仲裁により、二人の罪は「切腹」から「座敷牢での幽閉」という、随分とマイルドな(?)刑に減刑された。


 きつく詰問されてぐったりとしている叔父上とお兄様が駆けつけた小姓たちに脇を抱えられ、部屋から連れ出されていく。その顔は死の淵から生還した者のそれだった。


 嵐のような時間が過ぎ去り、部屋には再び重苦しい静寂が戻った。

 私はしゃっくりをあげながら、父の顔を見上げる。さっきまでの鬼のような形相は消え、そこには深い疲労とどこか自省するような、そして少しだけバツの悪そうな表情があった。

(……これが、戦国時代)

 これが私の父親。この家の当主。一度怒れば、血を分けた一門や我が子にさえ、容赦なく死を命じる。

 私が夢見る「モフモフとのスローライフ」は、この人の気まぐれ一つで、いとも簡単に吹き飛んでしまうのだ。

 私はこの世界に来て初めて心の底からの恐怖を味わっていた。そして、この理不尽な世界で生き抜くためには、賢く立ち回らなければならないと魂に刻み込んだのだった。

(モフモフスローライフのためには力だけじゃダメだ。人の心を読み、先を見通し、時にはこの『神の子』という立場さえ利用する知恵が必要だ……!)

 赤子の小さな拳を私は固く、固く握りしめた。

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