第2話 兆し
――6月6日06:12|東京都内・大佐の自室
昨日の文書漏洩を発端とする経済不振は未然に防がれた。
MoRSが行った世論のかく乱が不安材料であった情報をネットの海に沈めたからだ。
今回漏洩したのは財務省の経済シミュレーションに関連する情報で
物価高を予期したものであったが、精度は高くない。
しかし、SNSで高い発言力を持つ一部のユーザーが情報を一部リークしたことが
発端だった。
正しい情報が崩壊に値しないのであれば、そのまま伝えればよかった。
些細な綻びから大きな崩壊が起こる。
それが世界というものだ。
その綻びを防いだ大佐はすでに床についていた。
朝、カーテンの隙間から差し込む朝の光が、室内の金属光沢をわずかに照らし
薄い布団の上で上体を起こした“先生”は、無言のまま視線を天井に向ける。
その眼差しは、数時間前まで処理していた報告書と同じ緊張を、まだ保っていた。
ドアの開く音。滑らかに床を踏む足音。
メイド服を纏った少女が、銀の盆を手に入ってくる。
「おはようございます、ご主人様」
その声には抑揚も感情も希薄だった。
しかしそれは、設計された“自然”として、完璧だった。
雪乃――本名は持たない。MoRSにおける副官であり、大佐直属のAI補助機構。
現在は受肉体として、日常生活では“大佐の家のメイド長”として存在していた。
「朝食の準備が整っています。エネルギー効率の観点から、摂取を推奨いたします」
「……わかった。ありがとう、雪乃」
手短な返答とともに、大佐はゆっくりと立ち上がる。
家族が寝静まる朝のこの時間帯だけが、雪乃とふたりきりで会話ができる
“私的空間”だった。
ダイニングに移動すると焼いたトーストと糖分の調整されたカフェラテが出迎える。
目を落とす間もなく雪乃は手元のタブレットをスライドしそっと大佐の前に置いた。
「今朝未明、心斎橋西部エリアにて“異常感知報告”が複数件発生しました」
「……どんな内容だ?」
「SNS上での投稿形式です。“信号が喋った”、“看板が逃げた”、“広告が警告してきた”──
合計12件が3時12分から5時40分の間に投稿、すべて既に削除済み。
ただし、削除速度とログの巻き戻し傾向から、自然削除ではなく、管理アルゴリズムへの手動介入が疑われます」
「誰かが“消している”……か。あの地区で?」
「はい。西成に近く、生活困窮者が多く集まる範囲です。MoRSの第三班構成員がホームレス数名に非公式ヒアリングを行いました」
雪乃が画面を切り替えると、荒く低い声の録音が流れた。
「信号が……なんか言ってたんだよ。“間に合わねぇ”って……でも次に赤になったときは何も言わなかった。あれは……夢じゃない」
大佐はそれを黙って聞いていた。
淡い光に照らされた雪乃の表情は、常と変わらない。
だがその報告の背後にあるものが、平穏を蝕む“予兆”であることは、彼女も理解していた。
「……心斎橋に行く」
「大阪大学での講義予定を利用すれば、昼前に現地へ到着可能です。
空き時間での観察行動が適切かと」
「判断は任せる。ただ、同行はしてもらう」
「もちろんです、ご主人様」
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