君への距離のパラドクス



 数学の難問を解き終えたらしく、うーん、と伸びをした彼女は、


「たかはた、知ってる?」


 と、問い掛けてくる。

 僕は「何が?」と応じながら、彼女の笑顔から目を逸らす。

 その表情を見ないようにしたことを悟られぬように、平静を装いながら。


 彼女――唐戸からど小筆こふでは、わざとらしく黒いロングヘアを掻き上げて、更には眼鏡をくいと上げてみせてから言った。


「『ヒルベルトの無限ホテルのパラドックス』。あれがどういうことなのか、私は遂に理解したのだ」

「へえ」


 全然興味がなかった。


「興味がない、って顔だな、これは。こら、こっち向くの!」


 膝立ちになった唐戸はそのまま僕の方へと近寄ってくる。ブレザーのタイを掴まれでもしたら堪らない。僕は立ち上がり、広縁の方へと逃避する。ついでに開け放たれていた襖を閉めた。そろそろ帰る時間だ。

 その行動を見たからか、彼女も座卓の筆記用具を片付け始める。


「ああ、そっか。まず、『ヒルベルトの無限ホテルのパラドックス』を説明しないとね」


 僕が『ヒルベルトの無限ホテルのパラドックス』を知らないことは正しかったし、知らないが故に「理解した」と言われてもピンと来なかったことは事実だけど、それ以前に、僕は興味がなかった。


 そういう話は苦手だった。哲学とか、思考実験とか……。その手の全てが。

 というよりも、僕は学術的なこと全般が苦手だった。

 だからと言って、感性が優れているわけじゃないけど。


 むしろ、感覚的なことの方がより苦手だ。


「無限の部屋数を誇るホテルがあって、そこには無限の人間が泊まれる。部屋の数が無限だから当たり前だよね」

「無限の部屋数を誇るホテル、って前提が当たり前じゃないと思うんだけど」

「あるかもしれないでしょ」

「ないよ、そんな胡乱なホテル」

「数学の世界ではあるの!」


 怒られた。

 ……じゃあ、「ある」でいいです。


 和室を見回して、忘れ物を確認する。

 大丈夫そうだ。


「このホテルが満室だったとして、」

「……無限の部屋数のホテルなのに満室になるんだ。無限に部屋があるのに……」

「無限のお客さんが来るの! 無限の部屋数を誇るホテルなんだから!」


 不思議な前提だ。


 二人で部屋を出る。

 唐戸がポケットから取り出した鍵で扉を施錠する。


「無限の部屋があるホテルに無限のお客さんが泊まってるとしても、このホテルは新たに一人のお客さんを泊めることができる……。ここまではいいよね?」

「満室なら無理じゃないの?」

「全員、一つ隣の部屋に移ってもらえばいいんだよ。そうすれば一部屋空くでしょ?」

「空く……、かなあ?」

「空くの!」


 空くらしい。


「面白いのはここから。隣の無限ホテルの水道設備が故障しちゃって、隣の無限ホテルのお客さん無限人を無限ホテルに泊めないといけなくなったとする」

「隣にも無限ホテルがあるんだ」

「うん」

「さっき、『無限の部屋数を誇る』って言ってたのに? 隣にも同じ部屋数のホテルがあったら、なんのセールスポイントにもならなそうだけど……」

「困ったよね。無限人分の新しい部屋を用意しないといけない」


 ……無視された。

 その隣のホテルも満室だったと言うのなら、無限界隈では、何処の無限ホテルも人気なんだろう。


 別棟べっとうの廊下を歩き始める。

 時刻は午後五時になる少し前。

 夕方と言うべき時間帯だが、六月だからか、陽が落ちる気配はなかった。


 彼女と一緒にいると、時間を長く感じる。

 どうしてだろう。


 特に、書道部の部室から出て、昇降口に辿り着くまでの、この一時。

 計ってみれば、ほんの数分のはずだ。

 なのに、こんな時間がずっと続くんじゃないか、とさえ思えてくる。


「この答えはこうなってる。『無限ホテルに泊まっている無限人のお客さん全員に偶数の部屋に移ってもらえば、奇数の部屋は全部が空き室になる。だから、新たに無限人のお客さんを泊めることができる』。……変な話でしょ?」

「胡乱な話だね」

「私も理解できてなかった。でも昨日、本を読んでて分かったんだよ。それを説明する為には、今度は、『二つの集合がある場合、人間は数を数えられなくても、どちらが多いかは分かる』ということを説明しないといけないんだけど、」

「……無限に時間が掛かりそうな話題だ」


 そうして僕達は本棟へと繋がる渡り廊下を歩く。


 彼女は僕の一歩先を歩く。

 僕は彼女の一歩後ろを歩く。

 僕が一歩進めば、彼女も一歩進む。

 僕がもう一歩進めば、彼女ももう一歩進む。

 距離が縮まることはない。


 そう言えば、そんなパラドックスもあった気がする。

 アキレスと亀の徒競走。

 どうしてアキレスは亀に追い付けないんだろう。


 ……僕は、どうすれば、彼女に届くだろう。


「たかはた、聞いてる!?」

「聞いてるよ」


 僕の態度を咎めようと、唐戸が振り返る。

 こちらを見る。

 僕はレンズ越しの瞳から逃げるように窓の外へと目を遣った。

 全然本棟に着かないね、なんて呟きながら。


 僕、高畠たかはたあゆむは――彼女に恋をしていた。

 顔も満足に見れないくらいに。







 ―――『唐戸小筆』に出逢ったのは、中学二年生の頃だった。


 球技大会のことだった。

 僕が参加した種目はサッカーだったけど、属するチームは早々に敗退した。

 暇になった僕は、友達の応援に行くか、と体育館へ向かった。

 中では女子がバスケの試合が行われていた。


 そこで――唐戸小筆を知った。


 黒髪を揺らしながら、コートで活躍していた女子。

 それが唐戸小筆だった。

 一つ結びにされたセミロングの黒い髪に、ハーフリム型の赤い眼鏡。見た目の要素は大人しそうな学級委員長タイプなのに、声は大きく、はきはきとしていて、笑顔は明るかった。

 僕は「気になるな」と思ったけど、気になるのはきっと、チームの中心人物で目立っているからだろう、と結論付けた。

 ……多分、その時点で僕は唐戸のことを好きになっていた。


 恋愛に興味はなかった。

 どの女子が可愛いか、という話題には愛想笑いをするだけだったし、自分の見た目に気を遣うこともなかった。それで困らなかったし、そういうことで悩む場面は来ないだろうと考えていた。

 人を好きになることはないだろう、と思っていた。

 恋なんて、他人事だと思っていた。


 だから、唐戸のことを目で追うようになっても、それは気のせいで、あるいはたまたまでしかないと決め付けていた。


 唐戸とは中三に同じクラスになった。

 たまには話すようになった。

 最初に会話をした時、僕は「唐戸さん」と呼んで、対する彼女は、「さん付けなんていいよ」と明るく笑った。仲良くなれた気がして、僕は嬉しかった。誰が相手でもそういう態度であると分かっていたのに。


 どうやら自分は唐戸のことが好きらしい、と気付いたのは、中三の夏のことだった。

 ある日、唐戸が告白された、と知った。

 僕と唐戸の席は近かったので、唐戸が友達と話していた内容が耳に入ってきてしまったのだ。……それだって今から考えると、聞き耳を立てていたのかもしれない。なんにせよ、僕は唐戸が告白されたと知った。隣のクラスの男子からだという。

 その瞬間、僕はありえないくらいに動揺した。

 心臓が跳ねて、息が止まるかと思った。

 断ったよ、と彼女が言った時、僕はまた、ありえないくらいに安心した。


 ―――ああ、僕は彼女のことが好きなんだ、と気付いた。


 僕は、好きという気持ちを自覚した。

 ……でも、どうすればいいかは分からなかった。


 僕達は同じ高校に進学した。そこでも偶然、同じクラスになった。

 けど、どうすればいいんだろう?

 僕は悩んでいた。

 どうすれば彼女に近付けるだろう、と。


 チャンスはすぐにやって来た。

 中学の先輩に、「籍だけ置いてくれればいいから!」と頼まれ、訪れた書道部。その部室である和室では、一つ結びの少女が筆を握っていた。

 唐戸だった。

 僕が書道部に入部したことは言うまでもない。


 僕達は同じ部活になった。

 でも、それだけだ。


 僕はまだ、彼女に届いていない。







「それは無限廊下だねえ」


 翌日の学校終わり。火曜日の夕方。

 書道部の活動日は月曜と水曜なので、僕は真っ直ぐに下駄箱に向かった。その道中で窓枠にもたれ掛かり、ジュースを飲んでいた先輩を見つけた。

 落合先輩は中学時代からの先輩だ。僕を書道部に入れた人物でもある。この美人の先輩と仲が良いことは、僕のちょっとした自慢の一つだ。クラスメイトの男子から羨ましがられることもある。


 それはさておき、『無限廊下』?

 世間話として、「昨日の部活終わり、妙に時間が長く感じたんですよね」と口にした僕に対し、先輩はそう言った。


「なんですか、その胡乱なワードは」

「この高校の怪談の一つだよ。『別棟二階の無限廊下』。聞いたことない?」

「初耳です」


 別棟は「部室棟」や「特別教室棟」とも呼ばれている。

 書道部の部室である和室があるのも、この別棟だ。


「別棟には特別教室があるから、授業によっては、そっちに移動するだろ? で、化学でも生物でもなんでもいいんだけど、それが終わったら、HR教室がある本棟に戻る。この時の廊下が無限に続いてしまう、って怪談だよ」

「……無限には続かないんじゃないですか?」

「それが無限に続くから怪談なんだ。廊下は無限に続き、時間も無限に続き、いつまで経っても本棟に辿り着かない。ああでも、怖がる必要はないよ。『廊下の長さがおかしくなっている』と誰かが気付けば無限廊下からは抜け出せる」


 逆に言えば、と先輩は続けた。


「話に夢中になって漫然と歩いていると、廊下から抜け出せない」

「ただの錯覚な気がしますけど……」

「現実的に考えればそうだろうね。細かいツッコミはしないでくれ、言ってみただけなんだから。私だって、本当にあるとは思ってないよ。時間を長く感じたのは気のせいだろう」


 無限の廊下なんて、あるはずがないんだから。

 無限の時間がないことと同じように。

 先輩はそう纏めて、次いで、苦笑した。


「無限の時間があれば、受験勉強もさぞかし楽だろうになあ……」







 怪談『別棟二階の無限廊下』には、補足のようなものがあるらしい。というよりも、別パターンか。

 本棟に戻る際に廊下が無限になる、という部分までは同じだが、細部が違う。「午後五時ちょうどに歩き始めると、無限廊下に囚われる」。行政無線から夕方五時を知らせるメロディーが流れている間が危ないと。

 これは僕達にとって悪い情報だった。書道部の活動時間は五時までだからだ。

 そんな怪談、あるはずないから、どうでもいいけど。


 水曜日の授業終わり。

 僕と唐戸は職員室で鍵を受け取って、和室に向かう。

 そして、部室に着いた僕達は各々に活動を始める。僕は小説を取り出して、唐戸は課題を始める。

 実のところ、書道部が書道部らしい活動をしているのはコンクール前だけだ。書道部員は和室を都合の良い溜まり場として使っている。だから、誰が来るかは日によって違う。今日のように、僕達二人きりのこともある。


 唐戸との二人きりの時間。距離を縮める、またとないチャンスだ。

 でも、具体的にどうすればいい? 話をしようにも、向こうは勉強をしている。話し掛けたことで邪魔になり、嫌われれば本末転倒だ。

 結局、今日も僕は彼女と同じ部屋にいても、たまに少しだけ話すだけで、時間が過ぎる。


「……ん、はぁ……」


 静かな和室の中では、彼女の呼吸音さえも明瞭に聞こえる。

 僕は思わずどきりとする。


 ……中三の夏、唐戸が告白されたと知って、僕は恋をしていると自覚した。

 でも、そこから高校に卒業するまで、僕は何もしなかった。どうすればいいか分からなかったから。……いや、何もしなかった理由はそれだけじゃない。嫌われるのが怖かったんだろう。恋愛のことが分からないから、間違ってしまったらどうしようと考えて。

 だから、先延ばしにした。

 卒業までは何ヵ月もあるんだからと先送りにした。

 秋になり、唐戸の進学先が自分と同じだと知ってからは、「高校になっても話せるはずだから」と根拠のない希望を抱いて、焦る気持ちを誤魔化した。

 何度でもチャンスはあるはずだと言い訳して。


 今はどうだろう。

 高校でもクラスメイトになった。部活も同じになった。話す回数は増えたと思う。多少は仲良くもなった、……気がする。

 でも、そんな恵まれた状況にあっても、僕は行動を起こしていない。先延ばしにして、先送りにしている。「これから何回だって話す機会はあるし」と自分に言い聞かせて。そう思っている内に中学を卒業した事実を見ないようにして。

 確かに話す回数は増えたけど、時間は長いわけじゃない。クラスでは一日に一度、話すくらい。部室では唐戸は勉強しているから、話をするのは向こうが振ってきた時だけ。ゆっくり話せるのは部室に行く時と部室から帰る時だけだ。


 あの時間が。

 やけに長く感じる唐戸との一時が、もっと長かったなら。

 例えば、そう。


 無限に長かったなら。


「……何を考えてるんだ、僕は」

「何、たかはた?」


 振り返った唐戸から視線を逸らしつつ、僕は、なんでもないよ、と応じる。

 ついでに壁掛け時計を見ると、長針は11を過ぎていた。数分もしない内に五時になる。

 「帰ろうか」と提案すると、唐戸はそうだね、と片付けを始める。


 僕が“それ”を試したのは、ほんの興味本位だった。

 わざとゆっくりと鞄を背負い、緩慢とした動作で和室を出て、その後は歩き始めずに廊下を見回してみる。


「どうした?」

「……なんでもないよ」


 夕方五時になる。

 時報として『夕焼け小焼け』が流れ始める。

 それを待って、僕は一歩目を踏み出した。







「気になっていたんだけど、唐戸って、どうして書道部に入ったの?」

「言ってなかったっけ?」

「うん。字が上手いから、それでかなとは思ってたけど」

「私、名前が『小筆』でしょ? それで字が下手だったら恰好付かないと思って、書道を習い始めたんだ。小学生の頃。その流れかな」

「へえ。書道をやってたんだ。上手いはずだ」

「見ててね、次に出展する時は凄いやつを出すから!」

「でも、部活では勉強ばかりしてるよね」

「書道セットを出すの、面倒じゃん。使ったら洗わないといけないし」

「書道ってそういうものなのに……」

「そう言うたかはたも、全然、字書かないでしょ」

「下手だからね。あんまり書きたくない」

「下手なら練習すればいいでしょ。私が書道を習ったみたいに」

「それもそうだね」

「たかはたは? なんで書道部に入ったの?」

「言ってなかったかな」

「聞いたかもしれないけど、忘れちゃった」

「落合先輩に頼まれたんだよ」

「先輩に?」

「うん。和室って、華道部も部室として使ってるだろ? 今は曜日で分けてるけど、先輩達の中では『いつかは華道部に吸収されるんじゃないか』って危惧があるらしくて、一年生を一人でもいいから入れたかったらしい」

「書道部と華道部と囲碁・将棋部の仁義なき戦いが原因なんだ」

「知らない勢力が増えてるんだけど」

「知らない? 囲碁・将棋部も和室を欲しがってるんだよ?」

「そうなんだ。その内、『日本文化部』みたいな名称で統合されちゃうかもね」

「我が書道部は五人で……。華道部は、十人、だったかな? これは劣勢だね。統合された時の為にも人を集めておかないと」







 何かが、おかしい。


 流れていた『夕焼け小焼け』のメロディーはとうの昔に消えている。僕はどれくらい唐戸と話した? 何分間、この時間は続いている?

 和室からスタートして、別棟内を移動し、渡り廊下を通って……。本棟まで辿り着くのに大した時間は掛からない。職員室で鍵を返して靴を履き替えて外に出るまで含めても、十分程度のはずだ。その半分と考えてもたった五分。

 ……五分? 本当に?

 窓の外を見る。渡り廊下の風景におかしなところはない。


 そう思った瞬間に、僕達は本棟に到着していた。


「…………え?」

「たかはた、どうしたの?」

「ああ、その……。別に……」


 ……ちょっと待て。

 僕達は渡り廊下の中ほどの位置にいたはずだ。

 今の一瞬で本棟に辿り着くはずがない。


 『別棟二階の無限廊下』。

 まさか……。

 そんな、まさかね。





 どうやら怪談は真実らしい。


 あの日から僕は検証を重ねた。書道部の活動は月曜と水曜。午後五時、時報のメロディーが流れるタイミングを狙って歩き出す。唐戸と話しながら歩く。やはり、おかしい。確実に時間の流れがおかしくなっている。廊下の長さがおかしくなっている。

 計ってみたが、普通に移動した際には二分にも満たない。唐戸と帰る時も同じで、腕時計はあくまでも二分程度しか経過していない。でも、感じる時間は明らかに長い。話を振り返ってみても奇妙さには気付く。先週の水曜日の場合、二分の移動時間で、話題は十個以上だった。そんなことがあるわけがない。

 先輩はこう言っていた。「話に夢中になって漫然と歩いていると、廊下から抜け出せない」。


 ……逆に言えば、話に集中し、時間を意識しなければ?


 廊下は無限に続く。従って、時間も無限に続く。

 唐戸といつまでも話すことができる。

 ……仲良くなることが、できる?


 唐戸に気付かれないように、自分でも意識しないように、時間を伸ばし続ければ。

 そうすれば……。







「唐戸はどうして運動部に入らなかったの? 運動も得意なのに」

「得意な方だけど、ずっとやり続けた子にはやっぱり負けちゃうよ。高校生から努力し始めるのは遅いのかもしれない。たかはたは? 中学では卓球部だったでしょ?」

「僕はそもそも運動が苦手なんだよ。卓球部に入ったのも誘われたから」

「卓球部も誘われて、書道部も誘われて……。主体性がないんだね」

「胡乱なことにね」

「あ、これも聞きたかったんだ。たかはたがたまに使う『胡乱』ってどういう意味?」

「ああ、胡乱ね。胡乱は胡乱な意味だよ」

「真面目に返答するの!」

「……実は僕も知らないんだよ」

「意味を知らない単語なのに使ってるの?」

「うん」

「なんで?」

「響きが面白いから」

「国語の先生に怒られそうだね」

「でも、意味が全然分かってないわけじゃないよ。『不確か』とか、『なんとも言えない』とか……。そういう感じだったと思う。小説で読んだ限りだとそんな感じ」

「ふーん。じゃ、さっきの『胡乱は胡乱な意味だよ』って言葉も許す」

「え?」

「『不確か』って言葉を、不確かな認識で使ってるでしょ? 合ってるじゃん」

「そっか。合ってるね」

「私は胡乱なことは好きじゃないけどね」

「唐戸の好きなパラドックスも僕に言わせれば胡乱だよ」

「胡乱かもね。答えが不確か、って意味では」

「なんとも言えないことも多いし」

「それで思い出したんだけど、『食事する哲学者の問題』ってあるでしょ?」

「あるの?」

「あるの!」

「じゃあ、あるんだね」







 和室から出る。

 戸を閉めると、唐戸が鍵を取り出し、施錠する。

 『夕焼け小焼け』が聞こえてくる中、僕達は夏の校舎を歩き始める。


 七月になっていた。


 無限に続く渡り廊下を僕達は何回通っただろう。

 僕は、唐戸と仲良くなれているんだろうか。


 『別棟二階の無限廊下』。

 話に夢中になっていると、いつまでも本棟に辿り着かないという怪談。

 無限に続く廊下。

 距離が無限だから、時間も無限になる廊下。


 この廊下がおかしいと僕は確信している。

 その気になれば、本当に無限の時間を過ごせるのかもしれない。


「そう言えばさ、たかはた、知ってる?」


 ……でも、これでいいのか?


 彼女は僕の一歩先を歩く。

 僕は彼女の一歩後ろを歩く。

 僕が一歩進めば、彼女も一歩進む。

 僕がもう一歩進めば、彼女ももう一歩進む。


 いつまで経っても距離は縮まらない。

 彼女の隣へと行けない。


「……アキレスは、なんで亀に追い付けないんだ?」


 絞り出すような声だったと思う。

 迷いと悩みが、思考を通ることなく、そのまま言葉になっていた。


 彼女が立ち止まる。

 斜め前から僕を見る。

 いつも一歩先に、彼女はいる。


 すぐ傍なのに、無限に遠い、その場所に。


「『アキレスと亀』の話? 難しい問いだね」

「難しいんだ」

「難しいよ。哲学的には『追い付けない』が結論かも」


 追い付けない。

 アキレスが亀に追い付けないとすれば、僕が彼女に追い付けるはずがない。


「たかはたが納得するかは別だけど、簡単な解答もあるよ。『時間を無限だと考えてるからおかしくなるんだ』っていう解答」

「え? 時間が無限にあれば、追い付けないことはないんじゃないの?」


 落合先輩は「時間が無限にあれば受験勉強も楽だ」というようなことを口にしていた。

 時間が無限なら、なんだってできるはずだろう。


 しかし、唐戸は言う。


「現実的に考えれば、アキレスと亀との距離は有限だし、アキレスが進む距離も亀が進む距離も有限。有限の時間内で行われてるレースに過ぎない。これを無限回のプロセスに分割してるからおかしくなってる、って解釈。分割は無限にできるけど、それは有限の時間内でしかできない。アキレスが止まってる場合は別だけど、そうじゃなければ……。あれ、私も分からなくなってきたかも」

「……パラドックスだね」

「うん。パラドックス」


 そういう意味じゃないよ、と言って僕は笑った。


 僕は勘違いをしていたらしい。

 無限の時間があれば、なんだってできるという勘違いを。


 パラドックス。

 逆説。

 背理。


 廊下が無限に続いても、時間が無限に続いても、それだけでは彼女に近付けない。

 当たり前だ。

 同じプロセスを無限の回数繰り返しているだけなんだから。

 距離が縮まるわけがない。


 彼女は僕の一歩先を歩く。

 僕は彼女の一歩後ろを歩く。

 僕が一歩進めば、彼女も一歩進む。

 僕がもう一歩進めば、彼女ももう一歩進む。


 僕は何故、アキレスが亀に追い付けないのかは理解できない。

 でも、僕が彼女の隣に辿り着けない理由は分かった。

 どうすれば近付けるのかも。


 簡単な話だった。

 僕が一歩踏み出せばいいだけなんだ。


 彼女がどんな子が好きで、どういうアプローチが正解か、それは分からない。

 だけど、同じ速度で後ろを歩いている限り、距離は絶対に縮まらない。


 もしも、廊下が無限に続いても。

 もしも、時間が無限に続いても。

 一歩踏み出すことをしなければ、距離は決して縮まらない。


「ありがとう、唐戸」

「どういたしまして……?」


 僕は大きく一歩を踏み出す。

 困惑する彼女の隣まで行く。

 目を逸らさずに、彼女を見る。


「何、たかはた?」


 ……彼女はどんな男の子が好きだろう?

 恋人に望むことはなんだろう。

 「こんな子がいいな」とか、「こういう人なら付き合ってあげてもいいかな」とか、そういう思いは沢山あるはずだ。

 でも、それは「沢山」ではあっても、「無限」ではないはずだ。


 彼女に誇れる部分を増やそう。

 一つでも多く。

 異性として見てもらえるように。

 彼女の望みに一つずつ対応させるように。


「今度、書道部の皆で遊びに行かない?」


 これが今の精一杯。

 僕が踏み出す小さな一歩。


 いいよ、と彼女は明るく笑った。


 気付くと、僕達は渡り廊下を通り終えていた。

 ふと振り返る。

 そこにはなんの変哲もない廊下があった。


 『別棟二階の無限廊下』はもう、僕には必要なかった。





『君への距離のパラドクス』 了


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