「活殺の剣」-龍訊の人-

影打無銘

第1話 火球

音がする。

とろりとした卵に火が通り、ちいさくぱちぱちと音がする。

だし巻き卵を焼いていた。溶いた卵と白だし、塩少々。

まだ陽が落ちる前の夕暮れ。暖かい季節。窓を開け、網戸を通して入ってくる優しい風を感じながらゆっくりと卵を巻く。


火加減はずっと弱火。事前にしっかりと卵焼き器を温めておけば、その後は弱火でもちゃんと火が通る。焼き目が付かず、つるんとした仕上がりだ。


今年で45になる。これまで結婚などは意識したことはなかった。好き勝手に生き、一人で始めた仕事は上手くは行っておらず、そろそろ事務所を閉めようかと考えている。

若い頃からいろんな事に挑戦してきたが、どれも長続きしなかった。


唯一続いたのは古武術だったが、師匠が他界してからは気が抜けたように稽古もやらなくなってしまった。


そろそろ、潮時かもな。それなりに楽しかったから、まあいいか。


だし巻き。もう少しで焼きあがるという所でラジオからニュースが流れてきた。

内容は、日本を含めた世界各地で頻繁に火球が目撃されていて、その付近で行方不明者が出ているそうだ。


火球を目撃した人の証言によると、赤い色だった、緑色だった、いや、青だった。など様々。

共通しているのは火球が地面に衝突する瞬間、強い光を放ち、音もなく消えたということ。


不思議なこともあるもんだな。そう思いながらふと、窓の外に目をやると、夕暮れの空に光が見えた。


星かな?いやあれは、あの光は、見たことのない色だ。なんと表現すればいいだろうか。プリズムが光を乱反射させているような。いや、それよりも。


光がだんだん大きくなっている。近づいているのか?

とりあえず火を止め、ガスの元栓をしめる。そして俺は、目前まで迫る、不思議な色をした光を、なぜか穏やかな気分で受け入れた。


「こんな終わり方も、まあ悪くないか」


視界が全て、強い光に包まれた。



濃い霧が立ち込めている場所。気がつくとそこに立っていた。


巨大な鐘を鳴らしたような音が、長く長く鳴り響いている。


ごおぉぉぉぉん、ごおぉぉぉぉん


と、遠くから聞こえてくる。決して不快ではなく、穏やかな気持ちにさせる音だ。


少しずつ、意識がはっきりしてきた。ここはどこだ。霧のせいで周りがよく見えない。


風が吹いた。霧が動いて前方が少し見える。目の前にあるもの、これは、壁か?

いや、山…のように大きな、何か。


その山のように大きな存在を見上げていると、子供の頃、初めて海を見たときの感情を思い出した。こんなにも大きく、深さのある水。怖いと思った。

人間には到底、太刀打ちできないほどの大きな存在。けれど、浜辺で海水に足を浸けてみると、激しさの中に優しさも感じた。


あの頃の感情を、何故か思い出した。


もう一度、大きな存在を見上げる。すると、俺の胸に感情が伝わってきた。

言葉ではなく、想いが直接伝わってきたのだ。


これは、この感情は……慈しみ。

俺に向けられているのか。


山らしき存在が俺に対して慈しみの感情を伝えてきたと同時に、俺の中にも、この存在に対して同じ感情が湧き上がってきていた。

どうしてだろう。初めて目にするはずなのに。


しばらくすると、心に直接語りかけるように言葉が聞こえてきた。


『…目、…耳、…鼻、どれがよいか』


「では、……耳で」


視界が暗転した。



川のせせらぎが聞こえる。

最初に聴覚が戻り始め、次に視覚、嗅覚、触覚、味覚が戻ってきた。

右手には菜箸を持ち、左手には玉子焼き器。白いワイシャツに黒いズボン。そして裸足。

そんな状態で気が付けば川のそばに立っていた。


「どこだここは。いつの間に俺はこんな場所に来たんだ……」

さっきまで自分の部屋でだし巻き卵を焼いていたはずだったんだが。一体何が…

覚えているのは、確か窓の外に明るい光を見た。火球…流れ星か、と思った所までは覚えているがその後の記憶がない。

いや、確かここで目を覚ます前に、誰かと会ったような……。


周囲を見回す。見覚えのない場所だ。それなりに幅のある綺麗な川。

辺りに民家は見当たらず、少し離れた場所に森がある。


足元を見ると、半ば地面にめり込んだ人の頭ほどの大きさの鉄の塊があった。表面が少し焼けたような跡があり、微かに煙が上がっている。


右手の菜箸を尻のポケットに入れ、恐る恐る触れてみる。少し温かい。


「これは、隕石なのか…?」


『…………、………よ』


微かに何か聞こえた。何だ今の声は、すぐ近くだったような……



そのとき、遠くで声が聞こえた。先ほどとは違う声だ。

森の方からか?


誰か人がいるのか。もしかしたらここがどこだか教えてもらえるかもしれない。


すぐに向かおうと思ったが、目の前の鉄の塊が気になり、持って行くことにした。

右腕に鉄の塊を抱え、左手に卵焼き器を持ったまま。


見失わないよう、小走りで河原を進み森に入った。

足の裏が傷む。裸足で外を歩くのも久しぶりだ。


森の奥、遠くで人影が見えた。三人いる、だが様子が変だ。

争っているのか。一人が逃げ、残りの二人が襲っているように見える。


隠れながら、顔がはっきり見える位置に移動する。

大きな木の根元にうずくまる様に、一人が倒れている。

立っている残りの二人の顔を見た。手に大きな槍を持ち、その顔、その体は人間ではなかった。


口が大きく開いた、醜悪な顔の大蜥蜴。それが二本足で立ち、手には鋭利な切っ先が付いた槍を持ち、長い舌をちろちろと揺らしながら倒れてうずくまった人物を見下ろしている。


「なんだあのバケモノは…、本物なのか?」


木の根元に倒れた人物はフードを被り、顔がよく見えない。腿に傷を負って血が流れている。おそらく大蜥蜴の槍を受けたのだろう。


大蜥蜴の一体が、倒れた人物のフードをめくって顔をさらした。


遠かったが俺の位置からも顔が見えた。

苦しそうに大蜥蜴を見上げている。青年、というよりまだ子供じゃないか。なぜあんな若い奴がバケモノに襲われているんだ。


大蜥蜴が槍を引いた、突き刺すつもりか。


俺は咄嗟に右手に抱えていた鉄塊を離し、玉子焼き器を右手に持ち替えて力いっぱい投げた。

玉子焼き器は見事に大蜥蜴の後頭部に当たり、間抜けな軽い金属音があたりに響く。


大蜥蜴が俺の方を睨む。醜悪な顔が怒りでさらに歪む。

でかいな。俺より一回り大きい。なぜこんなバケモノが存在しているんだ。


玉子焼き器を後頭部に食らった一体が向かってくる。

早い。あの巨体でなんて速さだ。走って逃げきれるとは思えん。


周囲に乱立する木々の間に逃げ込む。ここでは槍を横に振るえない。

この環境を利用する。



呼吸を整え…、気配を身体の正面から消す。


木々の間を横に移動しながら距離を開ける。

しかし、追いつかれ、大蜥蜴と俺との距離が近づき、奴の槍の間合いまであとわずかになった。


突きが、来る。


脱力し、身体を右に捩じりながら反転させ、槍を避ける。が、右腕を少し掠める。

槍が後ろの木に突き刺さり、大蜥蜴の動きが一瞬止まる。


俺は身体を捩じった状態で右の尻ポケットの菜箸を抜き取り、勢いのまま大蜥蜴の右目に突き刺した。


緑色の血が噴き出し、悍ましい声で吠える。


その隙を逃さず、俺は両手で槍を掴み、大蜥蜴の腹に前蹴りを放つ。

目を突き刺され怯んだところに前蹴りを食らい、大蜥蜴は仰向けに倒れた。


俺は槍を持ち替え、倒れた大蜥蜴の喉元に槍を突き立てる。


肉を裂き、骨を割る感触が手に伝わってくる。

大蜥蜴は両手で槍を掴み、引き抜こうと抵抗する。

俺は全体重を乗せ、深く深く突き刺す。


ふ、と抵抗がなくなる。


「死んだか…」


そこで咆哮が聞こえた。

顔を上げると、もう一体の大蜥蜴が憤怒とも歓喜ともとれる表情で俺を睨みつけていた。


あと一体、だが槍があれば何とかなるだろう。死んだ大蜥蜴の喉元から槍を引き抜こうとするが、できない。死体が両手でしっかりと槍を握りこんだまま固まって動かない。

「くっ、バケモノがっ」


そこで異変に気付いた。右腕の感覚がない。

見ると右腕全体が紫色に変色しており、それが広がっている。

この槍、毒が塗ってあったか。くそ、さっき掠めたとき…


憤怒の大蜥蜴が姿勢を低くし、ゆっくり距離を詰めてくる。奴は俺に毒が効いていることをわかっている。だから敢えてすぐには殺さないつもりか。


木々を使った俺の手口はさっき見られたはずだ。もう奇襲は通用しないだろう。


「何か、武器になりそうな物は…」

右腕を抑え、呻くようにつぶやく。


『………よ、……めよ』


聞こえる。どこだ…、誰だ…


大蜥蜴がさらに姿勢を低くし、恐ろしい速さで突進してきた。


『星に求めよ』


今度ははっきり聞こえた。俺は少し離れた位置に落ちていた鉄塊に両手で触れ、かすれる声で叫んだ。


「武器をくれ、早く!」


死の槍が目前に迫る。鉄塊を左手だけで持ち上げ、槍を受けとめる。


我吟ガギンッ!――金属同士がぶつかる、甲高い音が森に響く。


大蜥蜴の槍を受け止めた。鉄塊は、その形を変えていた。

ごつごつと丸みを帯びていたその形状は、今は長い棒状に変化し。側面に美しい紋様を描いていた。


大蜥蜴が警戒し、後ろに飛んで距離を取った。

見たことのない現象を目の当たりにし、困惑しているようだ。


この武器、これは太刀だ。さっきの鉄塊が変形したのか。しかし通常の太刀と違い、切っ先から中ほどまでが両刃、そこから鍔元までが片刃になっている。

この武器の名前は確か『剣太刀つるぎたち』。


なぜこれが…


大蜥蜴が雄叫びを上げ、四つん這いになった。

全力で来る気か。


右腕が動かない。しかし、やるしかない。

俺は剣太刀の柄を左手で握り、右手は添え、右肩に背負うように構えた。


「来いバケモノ!」

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