第六話 v0.9の最終調整

工房の中央に立つ、v0.9。

その黒い巨体は、まるで主の出立を、静かに待ち構えているかのようだった。

匠は、調整用のコンソールが接続されたタブレットを手に、その足元に膝をついた。

最後の調整項目は、この機体の動きの要となる、関節トルクと姿勢制御、そしてエネルギー効率の最適化だ。


「MIYABI、右膝関節のトルクセンサー、キャリブレーションを開始する」


『了解いたしました。較正シーケンス、スタート』


匠がタブレットを操作すると、v0.9の右脚が、ウィーンという静かなサーボ音と共に、ゆっくりと屈伸を始めた。

HUDには、関節にかかる負荷やモーターの出力、各センサーからのフィードバックが、目まぐるしい速度でグラフや数値となって表示されていく。


パワードアーマーにとって、歩行という基本動作は、最も複雑でエネルギーを消費する行動の一つだ。

約90kgの自重に加え、装着者の体重、さらに外部からの衝撃を支えながら、スムーズで安定した二足歩行を実現するには、ミクロン単位の精度での調整が不可欠となる。


「……ダメだ、まだ応答性に遅延がある。0.2秒のラグが命取りになるぞ」


匠は、表示されるデータを睨みつけながら、忌々しげに呟いた。

特に、ぬかるんだ地面や瓦礫の上を歩くことを想定すると、このわずかな反応の遅れは、致命的なバランスの崩れに繋がりかねない。


彼は、制御プログラムのコードを直接書き換え始めた。

プログラミングも、彼にとっては甲冑の手入れと同じ、ものづくりの一環だ。

一つ一つの命令文が、甲冑を構成する小札であり、それらをどう編み上げるかで、鎧の性能は大きく変わってくる。


次に、彼は回生ブレーキシステムの調整に取り掛かった。

v0.9は、関節を動かしたり、衝撃を受け止めたりする際に発生するエネルギーを電力に変換し、バッテリーに再充電する回生システムを備えている。

この効率を、あと数パーセントでも上げることができれば、それは稼働時間という、最も重要なスペックの向上に直結する。


『現在の回生効率は、理論値の87%です。これ以上の向上には、物理的なコンデンサの換装が必要かと』


MIYABIが、冷静に分析結果を告げる。


「分かってる。でも、今できる最善を尽くすしかないだろ」


匠は、エネルギーの分配ロジックを調整し、待機状態のセンサーへの供給電力をギリギリまで絞るなど、ソフトウェア側でできる限りの最適化を試みた。

まるで、乾いた雑巾をさらに絞るような、地道な作業だ。


そして、最後に残された、最大の課題。

それは、HUDの片隅に、常に不吉なアイコンで表示されているものだった。


――稼働予測時間:38分12秒


高密度固体電池は、満充電の状態だ。

それでも、この数値。これは、あくまで平地を通常歩行した場合のシミュレーション値に過ぎない。

災害現場のような過酷な環境で、救助活動のような高負荷な作業を行えば、稼働時間はあっという間に半分以下になるだろう。


壁際に設置された専用の充電ドックが、静かに青い光を放っている。

このドックから離れれば、v0.9は、限られた時間しか動けない、いわば巨大な時限爆弾のようなものだった。


「……30分、か」


匠は、唇を噛みしめた。

30分で、何ができる? 現場にたどり着くだけで、ほとんどの時間を使い果たしてしまうかもしれない。


その時、MIYABIが静かに語りかけた。


『匠様。祖父君の手記に、このような一節がございます』


ディスプレイに、達筆な文字で書かれた手記の一ページが映し出された。


『一瞬の閃光、されど闇を照らすに足る。限りある命なればこそ、その輝きは尊し』


「……一瞬の閃光、か」


匠は、その言葉を反芻はんすうした。

そうだ、時間は有限だ。

だからこそ、その一瞬一瞬に、全力を注がなければならない。

30分しかない、と嘆くのではない。


30分も“ある”のだ、と考えるべきなのだ。


彼の心の中から、先ほどまで渦巻いていた迷いが、すっと消えていくのが分かった。

HUDに表示されていた、彼の精神的ノイズを示すグラフが、穏やかな波形へと変わっていく。


『礼式ロック解放の推定確率、35%に上昇』


MIYABIの報告が、彼の決意を後押しした。


「よし……」


匠は、深く頷いた。


「MIYABI、全システムの最終チェックを。俺は、装着準備に入る」


彼は立ち上がると、工房の壁にかけられた、一つのものを手に取った。

それは、非常用の持ち出し袋。

中には、救急セットや牽引ロープ、非常食など、基本的なサバイバルキットが詰め込まれている。

そして、彼はその中から、小さな布袋を取り出した。

中に入っているのは、祖父の形見である、小さな水晶の勾玉だった。


彼はそれを、v0.9の胸部装甲にある、小さな窪みにはめ込んだ。

それは、設計図にはない、彼だけのお守りのようなものだった。

カチリ、と小さな音を立てて、勾玉が収まる。


まるで、鎧に魂が宿ったかのように、v0.9のバイザーが一瞬、強く発光した。


外では、雷鳴がひときわ大きく轟いた。


運命の夜が、今、始まろうとしていた。

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