The Curse of Summer

志乃亜サク

夏の断片

 ぼくにとって夏の記憶というものは、いつだって断片的だ。


 ある出来事が脳に記憶されるメカニズムというものを、ぼくは知らない。

 ただ、カメラのレンズを通った光がフィルムに像を結ぶように、記憶される対象がもつ光の強さというものが大きく作用しているような気はしている。

 とくにこの夏という季節は、物理的な日差しの強さと相まって深く深く刻まれる記憶が多い。一方で、そのあまりに強い光の加減が周辺の記憶を白飛びさせてしまうものらしい。

 こうして前後関係もわからない、断片化した夏の記憶のいくつもが何十年も経ったぼくの脳裏にいまも焼けついたまま残っている。そしてそれらはもう、答え合わせする手がかりさえないのだ。


 たとえば母親と手を繋ぎ汗をかきながら上ったあの階段。木漏れ日がおちた古い石段のモザイクをはっきりと覚えているのに、あれがどこだったのかを思い出すことができない。


 たとえばどこかの祭りの縁日。威勢の良い屋台のおじさんの大きな手にお金を置いたときの緊張を、いまも覚えている。しかしあれがいつのことだったのかを思い出すことができない。


 そしてこれから話すのも、そんな夏の記憶の断片だ。



 その日、ぼくは自宅ではない、どこかの家の座敷にすわってぼんやりと目の前の小さな庭とその向こうに境界なく茂ったとうもろこし畑を眺めていた。

 窓は開け放たれていて、蚊取り線香が炊かれていた。隣の居間からは母親と、誰か知らないおばさんの楽し気に会話する声が聴こえていた。

 たぶんその日は母親が友人宅に幼いぼくを連れて訪ねていたのだろう。そういうことは何度もあった。


 「○○ちゃん、まだ帰ってこないの?」


 ぼくは居間に向けてそう何度も尋ねた。

 ◯◯ちゃんというのはその家の子の名前だ。ぼくはもう、その名前も思い出せないのだけれど。


 「もうすぐ帰ってくると思うんだけどねえ」


 襖の向こうから、おばさんの声が返ってくる。

 

 退屈だった。こうして母親に連れられてどこかへ行くと大抵その家には歳の近い子がいて、すぐに打ち解けて遊び始めるのだけど。

 その日「◯◯ちゃん」は、たまたま近くの川に遊びに行ってしまっていたらしい。


 居間からは母親とおばさんの甲高い笑い声が聞こえた。もうすっかりぼくの退屈など気に留めていない様子だったのがなおさら腹立たしかった。


 ぼくは寝転んで天井を見上げた。  

 ずっとカンカン照りの屋外を眺めていたので、目の前が真っ暗になった。


 少しだけ、風が吹き込んでいた。風鈴が鳴る。セミが鳴く。風鈴が鳴る。セミが鳴く。


 ふたたび外へと視線を移すと、真っ黒な敷居と鴨居と柱とに四角く切り取られた夏が広がっていた。額縁の夏。もちろんそんな陳腐な言い回しは、今それを振り返るぼくの付け足しでしかないのだけれど。

 向日葵が揺れていた。背の高いとうもろこしの葉が揺れていた。その向こうには青々とした空、入道雲が浮かんでいた。

 まだ近視になる前のぼくの目に、解像度の高い夏が映っていた。


 その時だった。


 とうもろこしの茎を手でかき分けながら、縁側の前に一人の少女が現れた。

 麦わら帽子、ビーチサンダル、スクール水着、その上に白いシャツ、日焼けした腕と足。

 小学3、4年生くらいだろうか。そのときのぼくよりだいぶ年上に見えたこの子が、◯◯ちゃんだった。


 「だれ?」と少女は言った。

 その問いにぼくがどう答えたのかは覚えていない。たぶんうまく答えられなかったような気がする。

 覚えているのは「手、出して」と言われるまま差し出したぼくの手に◯◯ちゃんがビンの形をしたプラスチック容器を傾けて、そこからラムネ菓子が2、3粒転がり出てきたことだけだった。


 その後どうしたのか、ぼくの記憶には少しも残っていない。母親たちのお茶会のあいだ一緒に遊んでもらったのか、それともすぐにお暇することになったのか———。

 彼女との記憶の断片は、ただこれきりである。彼女の名前さえわからない。


 だいぶ後になって母親にたずねてみたものの、なにしろこちらから出せる手がかりがこれだけなのだから、明確な答えが返ってくるはずもなく。

 それにもし名前がわかったとして、それ以上どうなることもない。母親の友人……あるいは頻繁な行き来があったわけでもなかったので、ただの知人……の娘さんというだけの縁なのだ。



 今にして思えば、あれがぼくにとっての初恋だったのかもしれない。

 そんな思いが、ずっと残り続けている。


 とうもろこし畑と向日葵と入道雲と青い空と———額縁の夏の真ん中に、あの名前も知らない少女が立っている。


 これは美しい思い出だ。美しい夢だ。

 しかし美しい恋とは呼べないかもしれない。

 答え合わせされることもない、永遠に消化されることのない恋というのは、むしろ呪いに近いもののようにぼくには思えてならないのだ。



* * * * * *



 いつしかぼくは大きくなり、人並みにいくつかの恋をした。少しばかりのうまくいった恋と、より多くのうまくいかなかった恋を。


 いや、恋に終わりがあるのなら、すべてはうまくいかなかった恋だったのかもしれないけれども。しかし、それらはすべて美しかった。


 夏が来るたび、いつもぼくの脳裏にはあの少女の幻影がたちのぼる。

 それはぼくにとって、いくつの夏を迎えても、いくつの恋を過ぎても、決して振り払うことのできない、夏の呪いだ。


 

 ある時、当時付き合っていた子に、そののときにスクール水着を着て欲しいと頼んで大説教をくらったことがある。



 なんなの?


 いや……夏の呪いがさ……


 意味のわからないこと言わないで。


 いや……仰る通りです。どうかしてました。ほんとスンマセン……。


 だいたい、どこで買ってきたのコレ?


 スンマセン、ほんともう勘弁してください……。



 平謝りしながら、ぼくは慄いていた。

 これが、逃れられぬ夏の呪い———。

 そしてまた涙を堪えて頭を下げ続けるのだった。






 

 









 


 


 

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