第三夜
やあ。またまた会ったね。元気だったかい? 今日は少し、このリンボの景色を見渡してみようか。あっちを見てみたまえ。眠りへと向かう人魂の向こうに、港があって、大きな帆船が泊まっているのが見えるだろう。あれは多くの人々を眠りへと旅立たせてくれる優れものだ。きっと、キミには魅かれる心があるだろう。しかし、待ちたまえ。僕はあれに乗ったことがあるから分かるのだけれど、あれがいつでも安眠へと僕たちを導いてくれるかは、分からない。時にあれは時化に遭うことがあるからね。利用するのも考えものというわけさ。
さ、反対にあっちに目を向けたまえ。随分と険しい岩山が見えるね。皆、あれを越えてきたのだ。もちろん、キミだって。キミは毎晩、あの山を越えてここまでやってくるのだ。くたびれたろう? せめてそんなキミが安眠に旅立てることを僕は祈っているよ。
さあ、きっと、もう慣れた脱力と凍結を実践してみてくれ。静かに息を吸って、吐く。それを繰り返すんだ。今のキミを脅かす存在は永遠にキミに到達できない。今というのは永遠を内包しているんだ。大丈夫だ。さあ、物語を通して眠りへと船出するキミを僕は祝福するよ。
遠い町に、彼は住んでいた。彼は窓を開け、石畳の坂道を眺めた。暖かな日差しの中、馬車が歩くのと同じような速さで坂を下っていった。彼は身支度を整え、ジャケットを着ると、坂を下り、馴染みのベーカリーへと入った。すべきことも会うべき人もない朝の日差しは、なんの色もついておらず、彼を無色に彩色するようであった。
ベーカリーの扉を開けた途端、小麦の焼ける匂いが彼を迎えた。彼は小さなクロワッサンとベーグルをひとつずつ、トレーへ乗せ、カウンターでエスプレッソを注文し、テラス席へと腰を下ろした。ベーグルをひと口齧った時、彼の肩に置かれた手があった。
「おはようさん。ウィル。掛けてもいいかい」
ロウだった。ロウは彼が頷いたのを見て、向かいに腰掛けた。彼のトレーにはクルミパンとエスプレッソが乗っていた。
「質のいいエスプレッソとパンで迎える朝は昨日よりも少しいい。お若いの、そんな気がしないか」
彼はベーグルを食べながら頷いた。隣のテーブルで男がパン屑を手に乗せると、そこに小鳥が群がった。
「お若いの。今日はどんな一日にするんだ?」
彼はロウになんの予定も無いことを告げた。
「それはいい。素晴らしい一日になりそうじゃないか」
しばらく、二人は黙って最高の朝食を共にしていた。吸い込んだ朝の空気に、彼は仄かにエスプレッソの香りが宿っていることを発見した。
「ああ、そうだ。ウィル。エマを知っているだろう?」
その名前に彼の鼓動が高くなった。
「昨日会ったんだ。こんなことを言ってたよ。私ももういい年、ってな。歳を気にしているうちは、まだまだ若い。同時に年を気にし始める時、人は変化を求めている。そうだとは思わんか、ウィル。あの娘、何か、変化を求めているのかもな」
ロウは朝食を終えると、良い一日を、と言い残して去っていった。彼はエスプレッソを飲み干してからもしばらく、テラスに座ったままであった。
やがて彼は立ちあがり、朝日の差す坂道へと戻っていった。花屋へ行こうというのであった。
こんな朝がキミにも訪れるといいね。何も予定の無い朝は少しだけ輝いて見える。きっとキミはこれからなん度もの朝を迎える。その中にはきっと、素晴らしい朝がある筈だよ。それはもしかしたら、明日かも。ありえないこともないさ。明日の朝が良くないものかもしれないというその予感が、外れることだってあるさ。少なくとも僕はキミがとびきり素晴らしい朝を迎えられることを祈っているよ。
じゃあ、今日はこれで。縁があったらまた会おう。じゃあ、おやすみ。
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