第12話

遠く有史以来、労働者が職務を放棄したり、夜逃げなどを行なったりした記録は多くある。これは使用者に抗議する直接的な方法だけでなく、病気を装い作業を遅らせるといった間接的な方法も認められている。いずれにせよこれら抵抗は、多くの場合抗議や交渉の手段に用いられることがほとんどであった。


ところが時代が進むごとに、これら作業の放棄から労働者の主張といった集団的・政治的な要素がなくなり、労働者の無気力さ、意欲など、個人側の要因へと変わっていったのである。


超高度に複雑化、高階層化した都市核において、個人が行う業務が社会に与える影響は極めて限定的で、そのことが原因で労働者の意欲は低下するばかりである。E.L.S.I.Aは感情曲線や行動ログから、これらリスクを管理することで、時に休息を促しつつ、業務を支援している。


〇市街レイヤー調整課


ホログラムが、ちかちかと光っている。

"業務効率の低下を確認。休息を取ってください"


システムはいつも変わらない。違うのはいつだって支援される方。

ナツメの指先は止まり、意識が遠のく。


——あの煤けた布、焦げた匂い。

「機械のたわむれにすぎない」

その言葉が、まだ耳の奥に残っている。


環外派。半ば都市伝説のような存在とナツメは思っていた。システムに背を向け、外で暮らす人々。いや、都市核のシステムを認めず、破壊を目論み活動している。自分たちで生きていくという点では残灯村と重なるが、本質的には遠い、異質な集団。


ナツメは、環外派に興味をもちはじめていた。少しでも話を聞こうとしていた。


"感情曲線:悪化。逸脱率0.2%"

行動ログを更新するE.L.S.I.Aの通知が、いつもより一音低く聞こえ、ナツメははっと意識を戻す。


ナツメは目を閉じ、深呼吸をした。

考えるほどに、胸の奥がざらついていく。

選択肢を提示され、問われるたびに、まるで誰かの手の上で泳がされているような気がした。


「ナツメさん?」

誰かが名前を呼んだ。

目を上げると、昼休みの通知が出ていた。



〇昼休み


気づけば、オフィスの照明は少しだけ落ち、各ブースのスピーカーやモニターが自動でミュートになっていた。


ナツメが立ち上がろうとしたその時、向こうのほうからヨシダが声をかけた。

「今日も魂抜けてますねえ」

笑いながら、スープパックを手にして近づいてくる。


「……そんなに抜けて見えますか」

「見えますよー。進捗も上がってないみたいですし」

ナツメは苦笑した。

「ログ見てたんですか」

「そりゃ確認しますって。チーム内で“感情曲線が不安定”って通知きてたんすよ。もしかして、メンタル補助ルート使ってないんです?」

ずばり言い当てたヨシダに対し、ナツメはやや狼狽えながら答える。

「……いえ、大丈夫です。ちょっと、考えごとしてただけで」

「考えごとっすか?」

ヨシダは眉を上げた。

「まさか、“外”のことですかね」


ナツメは一瞬、息を止めた。

ヨシダは軽く笑い、スープをストローですすった。

「残灯村方面に抜けるルートでナツメさんのログ消えたって、感情保全課の人がちょっとザワついてたっすよ」

「……ザワついてた?」

「“また戻ってこれるのか”って」

ヨシダの声には冗談めいた響きがあったが、その目だけが笑っていなかった。


ナツメは目を伏せた。

「ただの興味ですよ。外の空気を見てみたくて」

「あー、なるほどね」

ヨシダはまっすぐナツメを見つめ、静かに言葉を続けた。

「あんまオススメしないっすよ。"外”の空気は」


「……どうしてですか」

「吸うと、戻れなくなるんす」

「戻れない?」

「一回“選ぶ自由”なんか味わっちゃうと、こっちの世界が息苦しく感じると聞きますねえ」

ヨシダは、ホログラムから流れるダイレクトマーケティング映像に視線をやる。ステーキの広告だ。焼きたてのロース肉にナイフが入れられ、見事なレア断面が光り輝く。にこにことしながら食べるお客さんの様子を映して、映像は切り替わった。


ナツメは言葉を失った。

「息苦しい……」

「そうっす。まぁ、とりあえず、元気出してくださいよ」


"お前は間違っている"

そう言ってくれた方がどれだけ楽なことか。


「……みんな、ナツメさんのこと心配してますよ」

「みんな?」

「“変わった”って。僕も、そう思います」

ヨシダはそう言い残して、軽く手を上げた。


残されたナツメの前で、ホログラムの広告が切り替わる。

"キャンプの間接体験は、感情曲線の自然な回復を——"


ナツメは目を閉じた。

ヨシダの言葉が、静かに沈んでいく。

“世界が息苦しくなる"


自分は、もう戻れないのかもしれない。

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灰色の夕焼け 上川ながれ @uekawa_nagare

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