苦味の名前

与野高校文芸部

苦味の名前

 かき氷の吊り旗の前で少し立ち止まって、店に吸い込まれそうになったところでまた歩き出す。この熱気をカップ一杯の氷がどうにかしてくれるとは思えなかった。連日報道されている記録的な酷暑というものの恐ろしさを思い知らされる。それと同時に、少し運動でもするかと家を出たことを後悔し始めていた。強い日差しに照らされながら、日陰の道を探して歩いた。


 駅とは反対方向に進んできたからか、住宅以外に何もないような場所に来てしまった。限界は近いが、意地になって歩き続けている。都心部とは少し離れたこの町は、平日昼間の人通りはゼロに近い。そのせいで大して栄えていないのが欠点だった。人気のない道を歩いていくと、赤色の壁面看板が目に入った。近付いて中を覗き込むとカウンターとテーブルが見える。おそらく中華料理屋だろう。

 引き戸を開けて店に入ると、鍋を振る音が響いていた。

「お好きな席どうぞ」

店のアナログ時計は二時過ぎを指しており、この時間のせいか客はほとんどいなかった。奥のほうに男が一人座っているが、それ以外はすべて空席だった。僕はカウンターの端から二番目の椅子を引いた。本当は店主と向き合うことのないテーブル席に座りたかったが、一人で四席を使う勇気はなかった。壁に貼り付けられたメニューの数は圧巻で、この町とどれだけ長く付き合ってきたのかがうかがえる。一際大きい紙には、

〈中華そばセット チャーハン、ギョーザ選べます〉

と書かれていた。

「あい、お先にセットの炒飯です」

「ありがとうー」

店主はもう一人の客に炒飯を提供した。その後、コップに水を入れてこちらを向いた。

「ご注文お決まりでしょうか?」

「あっ、中華そばセットの餃子をお願いします」

「かしこまりました」

彼は威勢のいい声で返事して、コップを置いて調理の準備を始めていた。僕は受け取った水を飲んで背もたれに寄り掛かる。冷えた水が体によく沁みた。


 スマホゲームをしながらコップに手を伸ばす。時計を見ようと顔を上げたその時、大きな音が響いて電気が消えた。一瞬だけ視界が暗闇に飛ばされて、それからすぐに外の明かりが差し込んで周りが見えるようになっていった。停電なんて珍しいなとゲームを止めて検索エンジンを開く。

「店長? いてはりますか?」

奥にいた男が厨房をのぞき込んでいる。

「すいませんお兄さん、店長がどこ行ったかわかりますか?」

「あーわかんないです、すいません」

「ですよね、いや全然いいんすよ」

男と会話しながら検索窓に様々な言葉を入れているが、それらしき記事はヒットしない。

「停電しちゃったんでしょうかね」

「いやーどうなんでしょう、今調べてるんですけどどっかで停電が起きたって情報が一個も出てこなくて」

「ほんとですか?」

彼は僕の背後に回り込んで画面を覗き込み、不思議そうな顔をした。

「ここだけ落ちちゃったんですかね」

「そう考えるしかないかなと思ってます」

店のブレーカーが落ちたのではないかと思った。年季の入った店だし、配電設備の老朽化が進んでいる可能性も考えられる。

「お兄さん今からなんかされます?」

「例えばなんでしょう」

「配電盤とか見に行きません?」

「なるほど……」

素人がこれを解決できる気はしなかったが、彼は張り切って厨房に乗り込もうとしていた。


 カウンターに面した側の調理場には鍋や皿が置いてある。床は滑りやすく、視界が悪いのも相まって慎重に歩かなければならなかった。

「お兄さん、ちょっとこっち来てもらっていいかな?」

声の方へ歩いていくと、彼は流し台の前に居た。

「なんですかこれ」

「何やろねえ」

流し台には黒く濁った液体が並々と溜まっていた。水位が高い上に液体はわずかに動いていて、溢れていないのが不思議だった。

「あっこれ冷たい」

彼は液体に手を入れ、それをすくい上げた。原型を絶妙に留めたまま黒いものが宙に浮いた。

「ゼリーみたいですね」

「確かにそうかも」

「コーヒーゼリーみたいな感じ」

「そんなに美味しそうじゃないけどね」

塊に戻った液体は少し撥ねた。周りには飛び散らなかったが、液体の波打つ周期に影響を与えていた。不規則な動きは、気を抜けば吸い込まれてしまうような不安さを醸し出している。

「ここさ、コンロ無いのおかしくない?」

彼の声がぼんやりと脳に響いた。ほんの少し置いて、ずっと見ていたはずの黒い液体に再びピントが合った。さっき見ていたよりもどこか恐ろしく写って、一歩後ろに下がった。後ろのテーブルにぶつかって、そういえば彼に話しかけられていたと思い出した。

「無いんですか、コンロ」

「一応料理屋のはずなんやけどねー」

確かにここにコンロはなかった。もっと言えば、流し台と調理器具以外に目立つものはなかった。

「ここなんか変ですよね」

「ちょっと不気味っていうか、この世のものじゃない感じ」

「この黒いやつとか意味わかんないし怖いし」

「でも動いてんの面白くない?」

「いや、あんまり……」

この近くにいると気が滅入りそうでその場を離れた。店の外からは白色の光が差し込んでいる。眩しいよりは痛いという形容が正しいのかもしれない。手で光を遮りながらドアに近づき、手をかけた。それは固く鍵がかけられたように開かなかった。勘弁してくれよ、と吐いてから、仕方なく厨房に戻った。


「なんか大変そうやね」

彼は黒い液体をスライムみたいにして遊んでいた。

「あなたはどうするんですか」

「俺はまだこいつらで遊べるからなあ」

僕の話には興味なさそうな返答で、話しながら少量をすくっては流しの端にぺたぺたと貼り付けていた。

「それ生き物ってことでいいんすかね」

「いや、たぶん生きてはいないと思うんやけど」

少し遠くから眺めながら、手がかりのない部屋の中で思考を巡らせる。

「僕それが悪さしてると思うんすよ」

「ふーん」

しばらくの沈黙のあと、彼はまた口を開いた。

「俺ね、さっきこれ他の容器に移してたんだけど、気付いたらまたシンクが満タンになってたんよね」

仕組みは全く分からないが、とにかく物理的に量を減らすのは難しいかもしれない。お互いこの黒い液体を無くそうと思案しているようだが、糸口は見つからない。彼は手元を遊ばせながら、僕は机に腰掛けて足を組んで、それぞれが状況を打破できる一手を探していた。


 座ったまま少し眠ってしまったようで、起きてすぐに首が痛んだ。立ち上がって流しの方へ行くと、彼はそこにはいなかった。代わりに、手帳を破ったような紙が置いてあった。

〈お兄さんへ この黒いのを口に含んでから勇気をもってここに飛び込んでください。がんばって!〉

おそらく彼が残した物だろう。物音ひとつしない厨房が怖くなって、

「あのー、誰かいますかー」

と声を出したが、返答はなかった。彼はこの手順を踏んでどこかに行ったのだろうか。となると、追いかけた方が良いのだろうか。素早くこれを実行する行動力は持ち合わせておらず、紙と対面したまま動けなかった。そういえば彼はすごくアクティブな人だったと思い出す。あちこち歩き回ったり、これにも臆せず触ってみたり、流しに飛び込んでみたり。せめて行く時に一声かけてくれたら良かったのに、と不満を抱いて、口に出しそうになる。それでも何も言わなかったのは、仮に目の前でその工程を見せられたとしてもすぐに飛び込める自信がなかったからだった。二人してさらに変な世界に飛ばされたら? 底がずっと下まで続いていて、上がってこれずにそのまま窒息したら? 行かないことの理由付けなんていくらでも出来た。でも、僕のための書き置きを残してくれた彼の優しさを見えないフリするのも心が痛む。そうやってうだうだと結論を先延ばしにする自分に苛立ちを覚えた。後先考えるから行動が遅れるんだ、と言い聞かせて、黒い液体に手を入れる。それは僕が想像していたよりずっと冷たく、重かった。両手に収まる最大量をすくいあげ、口に運んだ。味もしなければ、質量のある物体が入ったという感覚もなかった。目を閉じてひと呼吸置いたあとで流し台に足をかける。


 次に目を開いた時には、端から二番目のカウンター席に座ってスマホゲームをしていた。直前まで何をしていたのか覚えてはいるが、そのどれもが他人が経験した嘘の話のように感じる。

「お待たせしましたー」

目の前に餃子が運ばれてきた。思い返せば随分と前に注文したような気もする。さっきの人は、と少し身を乗り出して奥を覗き込むが、そこには誰も座っていない。少しガッカリして、テーブルに目線を落とした。

「あの、すいません」

横から今まさに探していた声がする。それにひどく安心して、そして笑みが溢れた。何か言わなければ、と思った。

「あの、さっきの、覚えてますか」

「お兄さんも覚えてくれてましたか!」

「もちろん、信じられないようなことでしたけど」

「よかった、やっぱり俺一人じゃなかったんや」

彼は僕の隣の席に座った。

「あなたが寝てる間に色々あったんすけど、聞きます?」

「時間が許す限りは全部お願いします」

「いやーどれから話そっかなー」

彼の無邪気な笑顔は、これから話される僕の知らない色々への興味を引き立てた。

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