ディア・マイ・アンノウン
与野高校文芸部
ディア・マイ・アン・ノウン
世界はじつに多様なものに満ちているのに、そのすべてを名前で呼ぶことができる。現代社会では次々に新しいものが生みだされるが、それらもただちに名前にまといつかれてしまう。
松岡晋一(2020), 名前の哲学 講談社出版
名前をつければそれは存在になる。
一見逆さまであるように感じられるが、フェルディナン・ド・ソシュールやマルティン・ハイデガーなどが有名なように言語学や哲学の世界では一般によく言われることである。
例えば、「
では、名前のないものに出会ったとき人はどうするのか。簡単な話だ。名前をつければよい。名前をつけた瞬間、「それ」は単語となり、言語となり、人の扱えるものとなる。「それ」の指す範囲は定義され、他の誰もが理解できる存在へと変化する。理解したければ名前をつければよい。
名前のないものを名前のないまま放っておくことはほとんどない。少なくとも、私はそういうことはしない。そうでもしないと己の思考に組み込むことができないからだ。ゆえに、名前の分からないものにぶつかると一瞬思考が止まる。自身の領域外との
もちろん、私のように言語に頼らずとも思考できる人だって世の中には大勢いる。例えば、そう、彼女のように。
一度考えを文章として頭の中に書き起こし、読み上げる。そんな面倒な手順を踏まなければ人と話すことさえままならない私と異なり、彼女はどこか反射的に会話をこなす。いわく、頭の中に単語が図のようにして浮かび、その中を
その一方で、彼女は翻訳という作業が苦手だ。決して知識が不足しているわけではない。ひとつひとつの単語を大まかなイメージとして捉えているがゆえに、それに対応する語を正確に導くことが求められる場面で
私は私のあの性質を、つくづく
彼女と言葉を交わす。非言語の世界に思考する彼女の言葉は、考えは、いつだって刺激的で目新しい。それは彼女にとっても同じなようで、互いに持たぬ視点を共有し合っては討論まがいなことをするのが私たちの楽しみのひとつになりつつあった。彼女があまりにも
彼女と居ると、このなんとも言えない気分になることが多い。私は、この感情に名前をつけられていない。つけようとしていない、と言った方が正しいだろう。今まで経験してきた感情とはあまりにも異なり過ぎて、まず該当する語が即座に思い浮かばない。加えて、ひとつの言葉で表してしまうにはあまりにも複雑で、
シュレディンガーの猫、という量子力学の言葉がある。「箱を開けるまで猫は生きているか死んでいるかわからない」というフレーズで世に
私が彼女に抱くあの感情も、シュレディンガーの猫のようなものだ。私がそれに名前を付けようと正体を探る行為は、きっとそれを変質させてしまう。好意と名付ければ好意となり、尊敬と名付ければ尊敬となる。
けれどそのうちのひとつでも、あの感情の全てを言い表した言葉はない。ひとつの名で呼んでしまえば、それの様々な面が削られてなくなってしまう。限られてしまう。私は、それが嫌だった。
鏡に映りそうで映らず、しかし確かに私の一部である。フランスの哲学者ジャック・ラカンが、確かそのようなことを言っていなかっただろうか。「
私は彼女への感情を、名前のないままに抱えていくと決めた。彼女は私の「対象a」である。定義はそれだけで十分だろう。だから、私は今日も彼女と言葉を交わす。ああだこうだと議論して、時には他愛もないことを言って笑い合う。彼女が右手を差し出せば私は静かに左手を重ねる。その逆もまた同様に。私たちが互いに向ける感情に名前は無い。しかしただひとつ、それが悪いものでは無いということだけが、確かな事実として私たちを繋いでいる。
ディア・マイ・アンノウン 与野高校文芸部 @yonokoubungeibu
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