ディア・マイ・アンノウン

与野高校文芸部

ディア・マイ・アン・ノウン

世界はじつに多様なものに満ちているのに、そのすべてを名前で呼ぶことができる。現代社会では次々に新しいものが生みだされるが、それらもただちに名前にまといつかれてしまう。

             松岡晋一(2020), 名前の哲学 講談社出版


 名前をつければそれは存在になる。

 一見逆さまであるように感じられるが、フェルディナン・ド・ソシュールやマルティン・ハイデガーなどが有名なように言語学や哲学の世界では一般によく言われることである。

 例えば、「藍色あいいろ」。日本語で虹の青と紫の間の色を指す際に用いられる言葉だが、英語にはこの語に対応する言葉はない。よく"navy"などと訳されるが、正確には"navy"とはインディゴを用いて染めた黒みがかった濃い青色のことであり、「藍色」ではなく「紺色こんいろ」と呼ばれる色に近い。そのため、日本語母語話者が「藍色」と表現するものを英語圏では"blue"や"violet"と表現することになる。「藍色」という「色」は英語圏に存在しない。それゆえ、英語圏では虹は六色となる。


 では、名前のないものに出会ったとき人はどうするのか。簡単な話だ。名前をつければよい。名前をつけた瞬間、「それ」は単語となり、言語となり、人の扱えるものとなる。「それ」の指す範囲は定義され、他の誰もが理解できる存在へと変化する。理解したければ名前をつければよい。色然しかり、もの然り、人間関係然り。親、兄弟、友人、クラスメイト、恋人、同僚、先輩、後輩、上司、部下。名付け、定義し、線を引くことによって私たちは正気を保っている。

 名前のないものを名前のないまま放っておくことはほとんどない。少なくとも、私はそういうことはしない。そうでもしないと己の思考に組み込むことができないからだ。ゆえに、名前の分からないものにぶつかると一瞬思考が止まる。自身の領域外との邂逅かいこう刹那せつな、巨大な未知の怪物が目の前に迫っているような、そんな焦燥感しょうそうかんさえ覚える。そうして、自分の知っている限りの言語を行き来して一番近い言葉を見つけ出し、納得のいく説明をつけられるまで思考は次には進めない。言語で思考する者は、どうしたってそうせざるを得ない。


 もちろん、私のように言語に頼らずとも思考できる人だって世の中には大勢いる。例えば、そう、彼女のように。

 一度考えを文章として頭の中に書き起こし、読み上げる。そんな面倒な手順を踏まなければ人と話すことさえままならない私と異なり、彼女はどこか反射的に会話をこなす。いわく、頭の中に単語が図のようにして浮かび、その中をただよいながら思考している、と。そんな彼女から出てくる言葉は直感的で絵画的で、詩的なところさえ感じさせる。私の思考回路の中ではその姿の一片さえ見せてくれない言葉たちが、彼女の口からはつむがれる。彼女はいつも、私には到底成しえないことを当然のようにやってのける。

 その一方で、彼女は翻訳という作業が苦手だ。決して知識が不足しているわけではない。ひとつひとつの単語を大まかなイメージとして捉えているがゆえに、それに対応する語を正確に導くことが求められる場面でつまずいてしまうのだろう。しかし普段は魔術師のごとく自在に言葉を操る彼女が、眉根まゆねを寄せて虚空を見つめ、声とも吐息ともつかないかすかな音を立てながらぐるぐると思考している様は新鮮で少し面白い。


 私は私のあの性質を、つくづく難儀なんぎなものだと思っていた。言語こそ人類の成し遂げた最大の発明だとのたまう人たちは、きっとこの苦労を知らないのだろう。思考が止まったときの、あの、息が詰まる恐ろしい心地を知らないのだろう。そう名も知らぬ誰かを憎んだことさえある。しかし、彼女と出会ってからは不思議とその性質も愛おしく感じるようになっていた。

 彼女と言葉を交わす。非言語の世界に思考する彼女の言葉は、考えは、いつだって刺激的で目新しい。それは彼女にとっても同じなようで、互いに持たぬ視点を共有し合っては討論まがいなことをするのが私たちの楽しみのひとつになりつつあった。彼女があまりにも斬新ざんしんな物の見方をするものだから、それはそれは面白くって! 思わず吹き出すと、はじめは何が可笑しいのかと抗議していた彼女も次第に一緒に笑ってくれるようになって、嬉しいのだけれどそれと同時にになる。


 彼女と居ると、このになることが多い。私は、この感情に名前をつけられていない。つけようとしていない、と言った方が正しいだろう。今まで経験してきた感情とはあまりにも異なり過ぎて、まず該当する語が即座に思い浮かばない。加えて、ひとつの言葉で表してしまうにはあまりにも複雑で、繊細せんさいで、奥行きのある感情のような気がしてならないのだ。その感情に名前をつけるために正体を探る行為ですら、その感情を破壊することに繋がってしまいそうで。私は今も、心の底を揺蕩たゆたうようにして存在するそれに手を付けられないままでいる。


 シュレディンガーの猫、という量子力学の言葉がある。「箱を開けるまで猫は生きているか死んでいるかわからない」というフレーズで世に蔓延はびこってしまった言葉だが、それだけでは本来の意味合いとは少々異なる。もともとは「箱の中に猫が入っている。生きているか死んでいるかは分からないがそこにいることだけは分かっている。今から箱を開けて確かめたいが、もしかしたら箱を開けるという行為が猫を殺してしまうかもしれない。箱の中の猫が生きているか死んでいるかは箱を開けてみなければ分からないが、今どうなのかを知るすべはなく、箱を開けるという行為が猫に影響を及ぼした後の状態しか知り得ない」というかなり哲学的かつ複雑な思考実験であり、「観測という行為を行うことにより物体の状態が決定されているのだとしたら、観測したものは本当に事実としてよいのだろうか」といったような意味合いを持つ。

 私が彼女に抱くあの感情も、シュレディンガーの猫のようなものだ。私がそれに名前を付けようと正体を探る行為は、きっとそれを変質させてしまう。好意と名付ければ好意となり、尊敬と名付ければ尊敬となる。憧憬どうけいでもいい。愛着でもいい。庇護欲ひごよくとも独占欲とも呼ぶことができる。恋情れんじょうかもしれない。何とでも呼ぶことができる。呼べばそれは呼んだものにるだろう。言葉とは、そういうものなのだろう。

 けれどそのうちのひとつでも、あの感情の全てを言い表した言葉はない。ひとつの名で呼んでしまえば、それの様々な面が削られてなくなってしまう。限られてしまう。私は、それが嫌だった。

 鏡に映りそうで映らず、しかし確かに私の一部である。フランスの哲学者ジャック・ラカンが、確かそのようなことを言っていなかっただろうか。「対象aたいしょうあー」――自身の欠陥を埋めるために生涯人間が追求するものであり、その原因を表す語として彼が提唱した言葉だ。本来、この語が実在する人やものを指すことは無い。しかし、ここではあえて、彼女を私の「対象a」としたい。そうすればきっと、私が彼女に抱くあの感情に名前がつけられないことにも説明がつく。私が彼女について思考するとき、巨大な未知の怪物におびえずとも済む。


 私は彼女への感情を、名前のないままに抱えていくと決めた。彼女は私の「対象a」である。定義はそれだけで十分だろう。だから、私は今日も彼女と言葉を交わす。ああだこうだと議論して、時には他愛もないことを言って笑い合う。彼女が右手を差し出せば私は静かに左手を重ねる。その逆もまた同様に。私たちが互いに向ける感情に名前は無い。しかしただひとつ、それが悪いものでは無いということだけが、確かな事実として私たちを繋いでいる。

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