幸せを見る

与野高校文芸部

幸せを見る

 ――午前6時48分。


 ぼやけた天井と、鳥のさえずり。

 隣から聞こえてくる静かな呼吸。

 その音に触れるだけで、僕の心が解ける。

 良かった。今日も、生きてる――その考えが妙に生々しく感じられて、思わず眉間に力が入った。

 あと10分もすれば、隣で眠っている彼女を起こす時間だ。

 もうそんな時間なのかと毎朝思うけれど、鼓膜に残る寝息が、そんな考えを優しく飲み込んでしまう。

 ベッドから出れば、朝日を眩しいほど反射する白色の病室が、僕のからだを包み込んでくれた。

「よし」

 静かに独り言ちて、視界の端で寝息を立てる君を起こしてしまわないように薄いカーテンを開ける。柔らかい光は強くなり、君の白い頬を優しくなぞって、窓際の霞草は淡く発光した。

 病室には似つかわしくないアナログ時計がまた一つ、かちゃり、と音を立てる。……そろそろか。

 まだ少し震えてしまう手を伸ばして君に触れる。僅かに揺れる瞼に安堵し、声を発する。

「おはよ」

「ん……」

 彼女はまだ重たそうな瞼を開いたり閉じたりしてから、おはよう、と静かに笑った。

 微かに胸に走った痛みからは目を背けて話題を口にする。

「今日も、書くの?」

「もちろん。みんなに伝えたいから」

 そっか、と笑って見せれば「ね、ペンと紙。とって」と君は甘えたように言った。

「はいはい、まずは朝ごはんだよ」

「はあい」

 不満そうな君の前に、看護師さんが僕の元へ運んできてくれていた食事を並べる。

 何だかんだ嬉しそうな顔をして、律儀に手を合わせる君。

 ……今のうちに用意するか。

 寝台近くの引き出しを開ければ、分厚い封筒の束が目に入る。今嬉しそうに食事を頬張っている彼女が、何十時間とかけて書いてきた手紙だ。

『お母さんへ』『お父さんへ』『すずちゃんへ』

 きっとこれらは家族に向けてのもの。

『先生方へ』『2組のみんなへ』……。

 こっちは今までお世話になってきた人に向けてだろう。

 こんなに沢山あるのに、まだ伝えたいことがある人がいるのだろうか。その彼女らしさに、思わず笑みが溢れる。

「なにニヤニヤしてるの」

「なんでもないよ。ご飯は? もういいの?」

「うん、お腹いっぱい」

 眩しいほどの笑顔を見せる君。

 でも、そんな表情とは釣り合わないほど、ほとんど手の付いていない食事が視界に飛び込んでくる。

 また、食べる量が減った。これだけの食事量で何故あれだけの体力があるのか疑問に思うほどだ。

 残された朝食を食べながら、どれだけの時間が残されているのか、そんな事を考えてしまう。心の柔い部分が抉られたようにズキズキと痛む。味がしない。

 でも、目の前の君は当たり前のように今日も誰かへの手紙を書いていて。それが痛み止めみたいになって、僕の心を溶かした。

 大丈夫。きっとこの日常がなくなることは無い。

 言い聞かせれば僅かに舌に広がる味。それを噛みしめて、飲み込んだ。


 ――午後1時3分。


 鼓膜に蝉の声が響く。

 生彩が五月蝿うるさいくらいの夏を感じ、何処か安心感を覚える。

 冬は冷たくて、生きた心地がしないから。

 でも、外に見える陽炎に触れることのできない僕達は、まるで現実から隔絶されているみたいだった。窓の奥の格子が反射して目に痛い。

 そのことに焦りのようなものを感じている僕とは正反対に、彼女はいつも通り過ごしている。

 ……彼女が手紙を書く理由。それを知ったのはいつだっただろうか。

 僕達が出会ったのは、僕の母が入院していた大きな病院で、彼女は母と同室の女の子だった。

 僕がお見舞いに行くたびに、少しずつ仲良くなっていった。毎回手紙を書いている君を不思議に思った僕は、何気なく聞いてしまった。

「病気だから」

 初めて聞いたとき、たったそれだけの言葉しか僕の手元に来ることはなかった。

 含みを持たないその言葉は単純で、でも受け入れ難くて。

「どういうこと?」

 頭の中では察しがついているのだろうか。酷い動悸のする胸を抑えて僕は聞いた。

「みんなに感謝、伝えたいの。後悔しないように」

 やっぱりふわっとしている言葉だったけれど、諦めたみたいな君の笑顔が全てを物語っているようだった。

 誰かに感謝を伝えるために手紙を書く。理由は、病気だから。

 簡潔な言葉たちに、想像もできない程の重りがぶら下がっているようで。きっと君に残された時間は少ないのだと、嫌という程突きつけられた。

 それからは、夜が怖くなった。夢の世界に入った君が、二度と帰って来てくれなくなるのではないかと思ってしまうから。

 だから僕は、学校のない日は朝目覚めて一番に病院に向かった。学校があるときは放課後に。

 母が退院してからも、その生活に変わりはなかった。

 彼女は「たまには友達と遊んだら」なんて言ってくれていたけれど、僕は1分1秒たりとも逃したくなかった。そうしているうちに、気づいたら彼女がとてつもなく大切な人になっていた。

 今でも夜は怖い。目の前に君がいるはずなのに、僕は独りな気がしてしまうから。


 ――午後3時57分。


 日が傾いてきた頃。

 白の病室は薄ら明るく、橙色に染められていく。

 窓から差し込む強い日差しに耐えきれず、厚手のカーテンを引く。

 その拍子に当たった霞草が、白色の体を揺らす。何気なく見ると、白花の端は蝕まれたように茶色に変色していた。

「そろそろ花、変えよっか」

「ほんとっ」

 珍しく本を広げていた彼女に声を掛けると、嬉しそうに顔を上げた。

「うん、何が良い?」

「霞草が良い」

 見慣れた心地の良い笑顔につられて、思わず笑ってしまう。

「ほんとに好きだね」

「うん、花言葉が好きなんだ」

 ……花言葉。少し考えてみるけれど、気にしたこともないなと思い直す。

「なんて言葉なの?」

「んー、内緒」

 今度は悪戯な笑顔。

「教えてくれてもいいのに」

 そんな冗談交じりの会話も、夕焼けに溶け込んでいくみたいだった。

 名残惜しさを呑み込み、部屋を出る。

 歩き慣れたはずの廊下は何処か久しぶりな気がして、足取りが軽くなっていく。

 売店に行けば、多彩な花が、まるで出迎えかのように並んでいた。

 君にも似た可憐な花を探す。すっかり見慣れたその花はすぐに見つかった。

「霞草、ですか?」

 どれにしようかと視線を巡らせていると突然声をかけられ、肩が揺れる。

「すみません、いきなり声かけちゃって」

 声のした方を向くと、愛想の良い笑みを浮かべたエプロン姿の男性が立っていた。

 店員さんだろうか。

「いえ全然。病室の霞草を取り替えたくて」

「なるほど、今ならピンク色のものもありますよ」

 ピンク色の霞草……彼女が好きそうだという心想が浮かぶ。

「見せてもらってもいいですか?」

「もちろんです」

 彼は快く承諾し、すぐに持ってきてくれた。

 それは想像していたものよりも少し深みがあって、紫がかっていた。――やっぱり君らしいのは白色のものな気もするけれど、たまには悪くない。彼女の反応を思い巡らし、心が安らぐ。

 会計をしながら、病室でした会話を思い出し口を開く。

「霞草の花言葉ってわかりますか?」

 彼は少し手を止めて、考えるような仕草をする。

「色によっても異なりますが、ピンク色の霞草は『切なる願い』とかですね」

 切なる願い。頭の中で反芻する。

「ピンク色は、奇跡や願いといったものを彷彿とさせるため付いたそうですよ」

 如何にも彼女が好きそうな言葉に、自然と笑みが溢れた。

「素敵ですね。ありがとうございます」

「いえ、また何かあったらいつでも聞いて下さい」

 彼はそう言って笑い、花を渡してくれた。

 それを受け取り病室に戻る途中、電話の呼び出し音が鳴った。

「はい、――精神科です……」

 看護師さんの声が聞こえて、自分ではなかったことに安堵する。

 気を取り直して病室に戻ると、彼女の姿がなかった。


 ――午後8時35分。


 院内も静まってきて、時計の針は消灯時刻を迎えようとしている。

 一日の振り返りをするみたいなこの時間が、僕は好きになれない。どうしても、淋しく思ってしまうから。

 机上には、君が先程まで書いていたであろう便箋が広げられている。

 また明日。心の中でそんなことを呟いてみながら、それらをまとめ、引き出しの取っ手に手を掛ける。

 今までに書かれてきたものを取り出し、一つ一つ確かめるように整理をしていく。

 封筒に書かれた宛名の並びは変わらず、居場所を作れないみたいにひっそりと引き出しに潜んでいる。

 ……此処にあって、良いのだろうか。

 そんな考えが浮かんできたけれど、考えてはいけない気がしてすぐに打ち消す。

 君が居なくなるまでは……。

 封筒の束を視界から排除するかのように勢いよく引き出しを閉める。

 でも僕の意思に反して、それは僅かに跳ね返った。怪訝に思い引き出しの奥に手を入れてみると、他のものより幾分厚さの感じられる封筒があった。

 彼女が書いたものだろうか。

 封筒に宛名は書かれていなかった。

 拒むように震える手で便箋を取り出す。それを開けると、僕の名前があった。

 何度も見てきた、柔い繊細な文字。

『これを読んでいる頃には――』

 ドラマでしか見ないような、ありがちな台詞。


 ――あぁ、僕はまた、目を逸らしていたんだ。

 途端、事実だけが無情にも頭に流れ込んでくる。


『私のことは忘れて。お願いだから幸せになってね。』

 便箋の最後の行に綴られている言葉。滲んで、歪んで、醜いほどにボロボロの紙。

 涙の跡がはっきりと残っている。それも、何回も重ねられたみたいに。


 便箋の間に挟まっていた霞草の押し花。紫に近いピンク色と、見慣れた白のもの。

 なんで押し花……? そんな考えと同時に、走馬灯みたいに浮かぶ夕方の出来事。――「色によっても異なりますが、ピンク色の霞草は『切なる願い』とかですね」

 ……じゃあ、白色は?

 この病院でスマホを使える時間はとっくに過ぎている。分かっていながらも、僕は取り出した。こんなときなのに、また看護師さんに怒られちゃうな、なんて考えが浮かぶ。

 伸びた爪が、画面にぶつかる音がする。

「霞草 白色 花言葉」

 勢いで並べた検索ワード。一番上に出てきた言葉は「幸福」だった。


『私のことは忘れて。お願いだから幸せになってね。』

「切なる願い」「幸福」


 目の前が歪んで、呼吸の仕方を忘れたみたいになる。

 本当はずっと分かっていた。

 減らない食事も。突然姿を消すのも。僕の知っていること以外、何一つ話してくれないのも。全部、もう君が居ないからだと。

 幻を、見ているからだと。

 でも、気づいては目を逸らして。ずっとそうやって来た。

 人生で何度目かわからない君との別れに、訳が分からなくなって。

 勢いに任せて掴む窓も、病室の扉も全部鍵がかかっている。居たはずの彼女の姿は見えない。

 妙に冷静な頭と、混乱した躰。

 喉が痛い。声がしゃがれそうだ。

 

 また。また僕は、この部屋から抜け出せなかった。

「……君が居なきゃ、僕は幸せになれないよ」

 誰にも届かずに床に転がった声が、酷く情けなくて。

 枕に顔を押し付け、声を殺す。

 疲れが押し寄せる瞼の裏に、君の姿が浮かぶ。


 僕の幸せ。

 そうだ、彼女が願ってくれた僕の幸せ。


 君が居れば叶う。



 君はまだ、居るんだ。




 ――午前6時52分。


 ぼやけた天井と、鳥のさえずり。

 はっきりとしない頭は僅かな痛みを訴える。

 目を擦り起こす体。

 鼓膜にはっきりと届く、君の寝息。

 もう、時間だ。

 君に触れる。

「おはよう」

 何度か瞬きをしてから、君は「おはよう」と笑った。


 いつも通りの朝。

 僕は今日も、幸せを見る。

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