曇天

蓬葉 yomoginoha

第1話 曇天

 雨景色のなか、桜がゆるゆると散っている。

「寒いな」

 彼はさっきまでパリッと決めていた制服を名残惜しそうな様子もなく脱ぎ捨てた。

「どうした」

「ん。ううん」

 私は桜を見ている、ふりをしている。上を見ていなければならない気がした。


 空を見る。こんな卒業式にはふさわしくない曇天だった。

「みんな泣いてたな」

「そうだね」

「なんでだろうな。そりゃさみしいけど、永遠の別れってわけじゃない」

「……」

 彼は、少しずれている。

 特段、前向き、楽観的な性格ではないはずなのに、ふとした時にほんとうにポジティブになる。

「そういうことじゃ、ないんじゃない」

 私はつい言ってしまう。

「ん?」

 彼は、ベンチに座って、立ったままの私を見た。

 私は、雨を浴びてなおいっそう光って散る桜を手のひらに載せた。

「もう、ここに来ることはないから」

 桜の花は、やわらかくてはかない。遠くから見えるとあんなに白く桃色に美しいのに、こうしてひとひらとってみると、とたんに頼りない。

「みんなで過ごした時間は、もう帰って来ない。そりゃ、いつかはまた会えるかもね。でも毎日会って、ねむねむって言いながら授業受けて、だらだら帰る、そんな日常はもう来ないから」

「そっか……」

 彼にもようやくさみしさが降ってきたみたいだ。

「またねって、もう言えないから……!」

 さくらがにじむ。

 ぼやけて、ただでさえはかない存在がとりかえしのつかぬほどに、輝いてしまう。

「ばいばい、しなきゃいけないから」

 私は涙をぬぐって、彼を見た。

 彼は、驚きに言葉を忘れてしまったようだ。

「だから、泣くの。わかって」

「……ご、ごめん」

 彼はなぜか謝った。そしておろおろと制服を手に取り、何を想ったか、私にこぶしを差し出す。

「……なに」

「これ、第二ボタン。あげる」

「……なんで」

「なんで……って言われても。なんか、今渡せるの、これくらいしかないし」

 彼の不思議な、けれどなんとも優しいところが私はたまらなく好きなのだ。

 そう。

 だから、さっきの言葉には少しだけ偽りがある。


 私が泣くのは、ただ一つ。

 

 あなたとの日々が、終わるから。










 彼は東京の大学へ行く。

 私は地元の専門学校へ。


 たくさん、語らう中で、互いの人生を知る中で、私は彼に惹かれていった。飲み込まれていった、という方が正しいかもしれない。

 だから、同じ道を行きたかった。

 でも、現実は甘くはなく。私は、受からなかった。選ばれなかった。

 自暴自棄になって、もう「東京」という場所も嫌いになって、私はリタイアした。それが、彼とのつながりを消し去ってしまうものだと、気づいていたのに。

「したら、もう一年、がんばったら? 俺、お前と一緒に東京いけたら嬉しいよ」

「私は、もう無理。何も考えなくていいところに行きたいの」

「そっか」とさみしそうに笑った彼の、ほんのかすかな絶望の表情に気づいてしまった。もしかしたら、それは「失望」のようなものだったかもしれない。

 夜。死にたくなるくらい後悔した。

 私は、選んではいけない道を選んでしまったのだと思う。

 後悔するくらいなら、今からでも。そう思えるときもあるけれど、すべてを捨てて東京へ行く勇気は、私にはなかった。

 その勇気の無さをかき消すように私は正当化した。

「逃げた私に、彼の隣にいる資格なんてないのだ」と。

 それなのに彼は、いつまでも私のそばにいた。いつからかそれが当たり前になる程に。私の半分が、彼になったようだった。半身が愛で灯されているようだった。

 彼は私のなかで呼吸をしている。

 ありのままの私を見せられる彼は、まだ私のなかにいる。


 


「泣いてるとこ、初めて見たから。びっくりした」

 夕方の遊歩道。彼は私の自転車をいつも押してくれる。彼は電車で、駅とは正反対なのに、いつも当たり前のように自転車を押してくれる。

 そうだ。 

 あやふやな足取りでも、彼がさりげなく方向を決めてくれていたのかもしれない。多分、彼は変なところで鈍感で臆病だから、意識はしていないだろうし、私の気のせいかもしれないけれど、私がそう信じることができる、そのこと自体が大切だった。

「もうそろだな」

 その時。雲間から、夕陽が差し込んだ。

「おー」

「きれい」

「な」

「まぶしっ」

「あかねさす……」

「ん?」

「何か、そんな感じだなって」

 私は、ふと頭によぎった和歌を口ずさむ。


あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る


「……どういう意味」

「自分で調べて」

「なんだよー」

 だって、恥ずかしいもの。

 袖を振るのは、私もだけれどね。

 それも恥ずかしいから、言わないね。





 家の近くの公園で、私と彼は立ち止まった。

「あのさ」

「うん」

「やっぱり、東京には来ない?」

「……うん」

「そっか」

「……ごめんね。嬉しいよ、その気持ちは。でも、だめなの。私は、もう」

「じゃあ」

 その時、彼はにまりと、まるで悪だくみをする子供のように口を開いた。

「俺が東京行くのやめようかな」

「えっ……」

 背筋が冷えていく。

「だって俺の優先事項、東京行くことじゃないし。お前と、いたい」

「……」

 ああ。

 そうだ。彼はいつだって手を伸ばしてくれる。多分、これまでも何度も手を伸ばしてくれていた。草々不一な私の言葉に草臥くたびれることは、なかったのだろうか。あやふやな私に苦しむことは、なかったのだろうか。

 怖くなる。

 この人は何で手を伸ばし続けていられるのか。

「だめだよ」

「なんで」

「だって、あんなに勉強してたのに。それ全部捨てて、私と、なんて、意味わからない」

「意味……」

「私は、そんな、大した人間じゃないよ。そんな人間に」

「あのさ」

 彼はそこで、私の言葉を厳然と遮った。

「嫌われようとしても無駄」

「えっ……」

 彼はにひっと笑った。やっぱりいたずらっぽく笑った。

「なめんなよ~。俺の愛情を」

 そう言うと、彼は、初めて、髪を撫でてくれた。どうってことのない彼の指先が、私の髪を通り過ぎて、頭に触れる。

「や……」

「本気だよ、俺」

「……やだっ……」

 みんなとのお別れの卒業式では泣かなかったのに。

 どうして、たった一人との会話に、こんなに泣いてしまうの。

 私はうずくまる。

 嗚咽をこぼしながら、思いを馳せる。

「泣き虫だな」

 彼は私の隣に座って、背中をさする。

(優しくしないで……)

 そう思いながら、私は彼を見た。優しく美しい眼差しだ。その瞳に、きっといつも吸い寄せられそうになっていた。

「私のために、あなたの人生を、だめにしたくない」

「なんでだめになるって思う」

「だって、私には何も」

「じゃあ、一緒に持ちもの拾っていこう」

「……勇気がないんだ」

「俺だって勇気ないよ」

「何言ってるの」

「愛があるだけ」

 それなら、私にだって……ある。

「だから、手を握ってくれれば。けっこうさ、ちゃんと考えてるんだよ、これからのこと」

 彼は立ち上がった。あの眼差しのまま、私に手を伸ばす。

 ああ。彼の手は温かいんだ。ぎゅっと握ると、握り返してくれるのが好きだ。

 私は、彼の方に手を伸ばした。伸ばして、伸ばして……。

「……」

「……」




 夜が来た。

「ごめん。今日は、ごはんいらない」

 母に言って、シャワーを浴びて、すぐに部屋に入って、泣いた。

「ああ……あああああ……」

 こうして、私は大切なものを失っていく。

「……そっか」

 手を引っ込めた瞬間、彼は、星が消えたかのように、絶望的な表情を見せた。

「俺は、本気だった」

 彼は泣かなかった。彼も泣き虫なのに、最後の最後で泣かなかったのは意地だろうか。それどころではなかったのだろうか。

「じゃあな。……またね」

 彼は最後まで、彼だった。

 あんなに絶望して失望していたはずなのに、手を振ってくれた。その後ろ姿は、私が見ていたよりも小さくて、びっくりした。あの小さな背に彼は何を背負っていたのだろう。……そして、これからもどれほどの荷物を背負っていくのだろう。

 私のことは背負わないで。 

 そういっても、彼は背負うのだろう。

 握ればよかった。

 手を握ればよかった。

 掴めばよかった。

 力強く掴めばよかった。

 勇気がなくても、未来が見えなくても、それくらいならできたはずなのに。

 私は、彼を傷つけた。

 彼を傷つけたくなくて、彼を傷つけたのだ。





 彼は、東京で、別の人と過ごしているらしい。

 私は、私で、別の人と。

 あの時、手を握っていたら、どうなっていただろう。それを思うと今でも息継ぎができなくなる。

 あの日の私は気づいていなかった。彼の手を握らないことの意味を。

 彼の手を握らないということは、つまりほかの誰かにその場所を明け渡すこと。

 彼の脈拍を、女の子と話すとき緊張して少しだけ早くなる彼の脈拍を知れる温かい場所を、ほかの大したことのない誰かに明け渡すということなのだ。

 時が戻るなら、きっと私は手を握るだろう。彼の手を握って、私のそばにいて、と叫ぶだろう……か? ああ、ここにも私は確信が持てない。

 それなのに、彼が誰かと一緒に笑っている姿を想うのが、たまらなく嫌なのだ。だってそこは、私の……。

 それとも、彼は、今でも手を伸ばしてくれているのだろうか。

「なめんな」

 そういった彼の表情は、おどけていたけれど、きっと本気だった。

 迷った末、ついに私は、彼のLINEのトーク画面を開いて、ベランダに出た。



 季節はいつの間にか冬だった。

 星のない、寂しい夜だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る