第2話 封印を解く
放課後の空は、濡れた鉛の色をしていた。
廊下の照明は早めに点り、蛍光の白が床を浅く撫でる。掲示板の紙が一枚、はらりとめくれて戻るたび、胸の中の薄い羽が擦れる——はがれは、まだそこにある。
帰り支度のざわめきの中、ゆきはもう一度だけ空席を見た。朝よりも“何もない”が濃い。牡丹の影は机の下の縫い目へ細く伸び、黒板の湿りより深い。
窓際の最後列、倉持健太は視線で風向きを測るみたいに、外を見ていた。目が合ったわけではない。けれど、こちらの“気配”だけに、彼の目はわずかに反応した気がした。
◆
座敷は、湿った明るさに満ちていた。
木箱の前に座る祖母は、ゆきが襖を閉める音を聞くと、視線だけ動かした。
「来るよ。台風は、目を置いていく」
ゆきは頷き、畳に膝をつく。昨夜の“たわみ”——昼の粒子、机の軽い影、震える針、そして御堂一樹の口元から黒い蝶が戻っていくのを見たことを話した。
祖母は合いの手を入れない。ただ、終わりを確かめるように、短く息を吐いてから、木箱の鍵を外した。金具が小さく鳴る。
「封印はふたつある。刃の封印と、名の封印だよ」
白布が滑り、黒い鞘が露わになる。鞘口の銀が曇天の光を受け取り、目を細めるほどではないが確かな白を返した。
「刃は、布と鍵で眠る。起こすには、三度息をして、三歩下がってから、足元へ斬る。影は前にいない。自分から始まるからさ」
「名は、言葉と心で眠る。刀には古い名がある。けれど呼ばない限り、起きない。呼べば——払う。薄い羽からね」
祖母の指が鞘の縁をなぞる。
ゆきは自分の指先を見る。そこに“はがれ”の冷えが、まだ薄く残っている。
「払うって、どれくらい」
「斬り方のぶんだけ。浅ければ、薄い。深ければ、重い。——重いものは、斬らなきゃいけないときに来る。順番は、向こうも心得てる」
祖母は白い塩、小さな皿、細い紙垂(しで)、短い注連縄、古い酒を手際よく並べ、場を整える。
「もう一度、言っとくよ。戻る道を先に作りな。ほどける結び——蝶結びひとつ。固く結ぶな。帰り道が固まる」
「うん」
「喰日(くいひ)を、聞いたことは?」
ゆきは首を横に振った。
祖母は言葉を置く場所を探すように、ゆっくり続けた。
「この土地の太陽の影。昼を集めて、焦がす。人の時間は、焦げ目から剥がれる。剥がれた時間は蝶になる。本来は風に紛れて消える。けれど、器があると、そこへ寄る。器は、重い記憶を持つ者が選ばれる」
御堂一樹の横顔が脳裏に浮かぶ。誰かの忘れ物をそっと机の端に置く指の動き。調子の悪い蛍光灯を見上げて、軽く笑って流す癖。——空いたところを埋める手つき。
「器は戻す。戻すほど、喰日は太る。花は供え。窓になる。牡丹は、やつの好みだ」
祖母はそこで言葉を切り、ゆきを見た。
「斬れば、近づける。近づくほど、払う。それでも行くかい」
ゆきは、うなずいた。
怖くないわけではない。ただ、空席の“何も”が、朝より重かった。その重さの分だけ、答えが軽くなった。
「行く。知ってから、斬る」
◆
夜。
校門は閉まっている。脇の塀は低い。布靴で静かに乗り越え、校庭へ降りる。体育館の影は長く、窓ガラスが風で微かに震える。
三度息を吸い、三度吐く。下げ緒の蝶結びに触れる。戻る道——ある。
短く名を呼ぶ。
「——剪月(せんげつ)」
刃が目を開ける。足元の闇が薄く伸び、縫い目のように浮き上がる。
ゆきは足元へ刃を落とした。音はない。けれど、布を裂くより細い手応えが、手首から肘へ確かに伝わる。
世界がたわむ。
音が消え、昼の粒子が舞う。机と椅子の形は軽い影になって並び、黒板は真っ白。壁時計の針は同じ数字の上で震え続ける。
ここは——名はなく、理(ことわり)だけが動いている場所。
蝶がいる。
色を失った羽が肩に触れ、額に触れ、すぐ離れる。冷たさの順番が、触れた場所ごとに違う。
教壇の下、空席の真下から、黒い根のようなものが伸びている。細い線が束ねられて結び目になり、そこが微かに脈打つ。
——口。
朝の牡丹の影が、そこを庇っているのが見えた。
御堂一樹は、扉の側に立っていた。昨日と同じように、首を少し傾けて、何かを見送る目。口元がわずかに開き、黒い蝶が一匹、二匹、戻っていく。
呼びかけは、ここでは現に落ちてしまう。届かない。ゆきは深く息をした。先に知る。祖母の声が胸の底に並ぶ。
床の根の奥から、焦げの匂いが上がってきた。木が日向で焦げ始める寸前の匂い。喰日だ。
近づきすぎれば、昼が皮膚を焦がす。
刃を上げ、もう一歩踏み込もうとした瞬間、指先がしびれた。肩から肘へ、ひと筋、白い線が走るみたいな痺れ。代償が先に請求される。
——払える?
問いは内側から来る。答えはいつも、払ったあとにしか分からない。
ゆきは下げ緒の蝶結びに触れた。引けばほどける。帰れる。戻る道はある。
刃を降ろす。今は、知るまで。斬るのは、順番のあとだ。
踵を返すと、蝶の流れがゆっくり向きを変えた。肩にひとつ、額にひとつ、冷たい羽が触れ、離れる。昼の粒子が夜の側へ押し戻されていく。
ゆきは境目を越え、現へ戻った。雨音が一気に押し寄せ、体育館の壁がうなった。刃を納め、ほどける結びをほどく。紐がふわりと揺れる。
胸の中で、また一枚、薄い羽がはがれた。
今度は、少し重い。
——何を落とした?
思い出そうとして、鉛筆の匂いだけが、なぜか出てこない。教室の朝の木の粉の匂い。あんなに毎日嗅いでいたのに、名前がない。匂いの形が壊れた。
◆
座敷へ戻ると、祖母はすでに座っていた。
ゆきが刀を置くと、祖母は視線だけで「帰れたね」と言った。
「見えたものを、順番に」
ゆきは口と根、焦げの匂い、蝶の冷たさ、御堂一樹の口元から黒い蝶が戻っていくことを話した。
祖母は短くうなずく。
「戻しているんだね。器は、空いたところを埋める。自分がからっぽになる前に」
「どうすれば、止められる?」
「口を閉じる。供えの真下の縫い目を、一度で、深く。回りを遊ぶと、日が寄る。鼬(いたち)の風があれば、濃度は薄まるけど……」
祖母はそこで言葉を切り、ゆきの顔をまっすぐ見る。
「相棒がいるなら、借りを作ってでもいい。一度で終わらせるために」
ゆきの脳裏に、扉の影から現れた倉持健太の手が浮かぶ。札の角がわずかに浮き、風を拾っていたあの一瞬。
——見る順番、忘れるな。
彼の言葉は、胸の穴に形よく収まっている。
「明日、目が来る。朝は、水鏡が窓になる。台風は鏡を増やす。——けれど、縁は緩い。切れる」
祖母の声は低く、しかしはっきりと乾いていた。
「斬るなら、払うことになる。薄い羽じゃ済まないかもしれない。
それでも、行くかい」
ゆきは、蝶結びを作り直した。小さく、確かに。引けばほどける結び目。
そしてうなずく。
「行く。知った。あとは——一度で、深く」
祖母は目を細め、白い眉をわずかに動かした。
外で、風が方向を変える。屋根が一度、低く鳴った。
◆
夜半、雨脚が強まった。
窓に斜めの線が走り、街を包む音の粒が大きくなる。ゆきは目を閉じ、名を静かに胸の奥でなぞった。剪月。短く、はっきり。
耳の内側で、低い声がふたたびささやく。
——順番、間違えるな。
まぶたの裏で蝶がひとひら、花弁へ変わる。牡丹。重く、艶やかで、中心が深い。
神隠しは一度で斬れ。
その言葉を、ゆきは静かに、刃のほうへ送った。
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