兄が死んだ家で

流石翠香

第1話 静かなる炎

 最初に「痛い」と思ったのは、三歳のときだった。

 それは転んだときの痛みじゃない。父の手のひらが、大の頬を叩いたときのことだ。


 「お前ばっかり手かけらんねぇんだよ。泣くな、うるせぇ」


 その言葉を、大は幼すぎて理解できなかった。ただ、隣にいた兄・魁がすぐに抱きしめてくれたのは、覚えている。


 魁と大は一歳違い。

 両親は、魁のときはまだ「若い親」をやろうとしていた。写真も多く残っていたし、笑顔もあった。

 だが、大が生まれたころには、その熱は冷めていた。


 「またガキかよ」

 「どうせまた飯の手間が増えるだけじゃん」


 母はそう言って、機嫌のいいときしかミルクを与えなかった。父は、大に目もくれず魁ばかり構っていた。


 けれど、魁は違った。


 「大、俺がいるから大丈夫だよ」

 そう言って、隣で絵本を読んでくれた。遊んでくれた。夜泣きしても、魁があやしてくれた。


 大にとって、兄は母であり、父であり、世界そのものだった。


 小学校に上がっても、家の中は変わらなかった。

 父の暴力はエスカレートし、母は「お前は魁とは違う」と冷たく言い放った。


 殴られるたび、蹴られるたび、大の前に立ちはだかってくれたのは魁だった。

 「やめろよ! 大に手出すな!」

 そう叫ぶ兄の背中は、細くても頼もしかった。


 だから、大は我慢できた。

 兄がいる限り、自分は壊れない。そう信じていた。


 それが崩れたのは、十五の冬だった。


 風呂場で冷たくなった魁を見つけたとき、大は時間が止まったように感じた。

 湯船の中は、兄の血で黒く染まっていた。


 兄の部屋からは、誰にも宛てられていない手帳が見つかった。

 中には、こう書かれていた。


 「ごめんな。もう守れない。俺まで潰れそうだ。大、ごめん」


 大は泣かなかった。涙が、もう出なかった。

 葬式で、両親は平然と酒を飲んでいた。


 「あいつ、繊細すぎたな」

 「人の顔色ばっか見てたから、疲れたんだろ」


 それを聞いた瞬間、大の中で何かが凍りついた。

 そして、その凍りついたものが、別の形を取り始めた。


 その夜、大は復讐を決意した。


 叫びも、泣き声もない。ただ、静かに。冷たく。確実に。


 「あいつらを、このまま生かしておいていいわけがない」

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