バリスタ志望のルームメイトのカフェ店員さんが淹れるコーヒーは、世界で一番優しい味がする【5kPV】
待月 みなも
〔Side:Juli〕1. ルームメイトはカフェ店員さん
今日も残業でくたくたになって帰ってきた。
玄関を開けると、コーヒーの香りが鼻をくすぐり、ルームメイトの在宅を告げる。
リビングの扉が静かに開いて光が漏れる。
ひょいと顔をのぞかせるルームメイトと目が合うと――
「おかえり」
落ち着いた静かな声音と穏やかな表情が出迎えてくれる。
その声を聞いて顔をみると、私は気持ちがゆるゆるになっていく。
「ただいまぁ、シノン。おなかすいちゃった~」
その毎日お決まりのやり取りがもたらす安心感は絶大で、帰ってきたという実感を外ならぬルームメイトが私に与えてくれる。
ルームメイトの名前は
私はシノンって呼んでいる。
シノンは行きつけだったカフェに勤めていたカフェ店員さん。
それまで全然話したことはなかったけど、部屋を探していると店員さん同士の会話を偶然耳にして、知らない人よりはいいかなと思って私からルームシェアの話を持ち掛けた。
それがきっかけで、私とルームシェアをしてくれるようになったんだけど、今ではシノンのおかげで私はなんとかやれている。
私たちのルームシェアは、はじめはただの現実的な選択だったはずなのに、シノンの存在がいつの間にか私の心の占有権をどんどん主張するようになってきていた。
遅い夕食を二人で食べた後は、シノンの入れてくれるコーヒーを飲みながらソファーで眠くなるまで話し込むのがルーティン。
「もう聞いてよぉ……今日、またあの部長がさぁ」
と私は愚痴をこぼすのだけど、シノンは嫌な顔一つせずに「うん」、「うん」とただ頷きながら、淹れたてのコーヒーから立ち上る香ばしくて優しい香りを纏ったまま最後まで私の愚痴に付き合ってくれる。
シノンの短い「うん」には、魔法がかかっているみたいで、私は次の言葉がどんどんあふれてくる。
それでいて、私が言葉につまると、「今日もすごく大変だったんだね」とつぶやく。
どんなにつらくても、その一言で私の頑張りの全部をわかってもらえるような気がして……シノンをルームメイトにした私、グッジョブすぎ。
おのおのの部屋に戻ってからも、たまに通話を繋いで話して結局寝落ちするのはいつも私の方。
最近はその通話の頻度が増え気味で、それには理由がちゃんとある。
寝落ちすると少し申し訳なくはあるけれど、それでも私が寝落ちしたらしい時間には決まって、「また話そう。ぐっすりおやすみ、ジュリ」とメッセージをくれる神対応。
そのおかげで、翌朝の私はスマホの画面を見たら、また今日も頑張ろうって思えるの。
もともと仕事が鬼のように忙しく、家事ができずにたまっていく一方で困った私は、格安な家賃をだしにして、シノンに家事全般を任せきりにしてしまっている。
けれど、シノンから文句を言われたことは一度もないし、「好きでやってるから遠慮しないで」とも言ってくれる。
なにより、シノンの作るグラタンやミートソースは本格的で、仕事のパワーランチで食べ慣れた高級なイタリアンとはまた違った家庭の味が、疲れきった私の休日の起きる原動力にもなっている。
それから、シノンの淹れるコーヒーは私の癒しそのもの。
シノンが部屋でコーヒーを淹れてくれるようになってから、カフェのコーヒーではちょっと物足りなく思えるほど愛してやまないものになった。
休みの日にはバリスタの資格を取るための勉強をしていて、シノンはとっても偉いと思う。
シノンはコーヒーのことになると饒舌になる。
いつもコーヒー知識を滑らかに語るのだけれど、私にはいまいちわからない単語がいろいろと飛び出してくることもある。
私にわかるのは、とにかくコーヒーというものは奥が深いらしく、そのいろいろなものの中からお客さんの状態や心情をくみ取って、おいしい一杯を出せるように研鑽するのがバリスタというものらしいということ。
今日淹れてくれたコーヒーは甘く柔らかい香りが、疲れた頭と体に染み渡る。
「すっごくおいしい! 今日のコーヒーも最っ高」
私にとってシノンはすでに立派なバリスタなのである。
だから私は、お家に専属のバリスタがいてくれる優雅な暮らしを手に入れたと言っても過言ではない。
単なるルームメイトの私たちだけど、去年は当時の彼氏にクリスマス前に振られた時、私の予約していたディナーに付き合ってくれたりもした。
そんな失礼なこと、友人にも頼めないというのに、シノンは私の失恋の愚痴に付き合ってくれた流れでディナーにも付き合ってくれることになった。
しかも彼女にもクリスマスの予定はあったのに、わざわざ相手に連絡を入れてまで私を優先してくれたのは神を通り越していた。
クリスマスで周りがカップルばかり、そんなところに連れてきてしまった罪悪感で、何度も「ごめん」って言ってた。
メンタルが終わっていた私にシノンは。
「そんなことないよ。一緒に居られて嬉しいから、謝らなくて大丈夫」
そんな風に優しく受け止めてくれた。
階段とかでも手をとってエスコートしてくれたり、そんなに時間もなかったはずなのにプレゼントまで用意してくれていて、いつも以上にべたべたに甘やかしてくれた。
いつもは無表情に近いシノンだけど、その時は本当に楽しそうでにこにことしていて、一緒に来てもらったのがシノンで良かったと思った。
行く前はどう頑張ってもつらい消化試合だと思っていたはずなのに、幸せな時間に変えてくれた。
あとあと思い返しても、もしかしたらあの元彼と行くよりもいい思いができたかもしれないと思った。
シノンみたいな人が彼氏だったら最高だったのに。
けれど、それは難しい。
なぜなら――
シノンにはルームシェアし始めた時には彼氏さんがいた。
ルームシェアをはじめてからすぐくらいに彼氏と別れたシノンが、泣きながらコーヒーをすすっているのを自室のドア越しに聞いていた。
本当はあの時、私がシノンの話を聞いてあげられればよかった。
ルームシェア当初は今ほど打ち解けてもいなかったので、そっとしておいた方がいいと思った私は仕事の持ち帰り分を捌くために手を動かし続けていた。
結局失恋でつらそうなシノンには何も言ってあげられず、一緒にいてあげることも出来なかった。
それからしばらくして、今はどうして恋人を作らないのか、誰かいい人はいないのか問い詰めたけど、いつも興味なさげに「作んない」、「いない」と言うので、最近は聞くこともなくなった。
まあ、これだけ近くに居るんだから誰か好きな人ができたら気づけるよね。
もしそういう人ができたような素振りがあったら、その時はきっと少し寂しいけれど、夜通しかけてでも聞き出して背中を押すんだから。
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