四日目 愛の始まりと再生

 四日目の朝、高瀬梓は佐伯柊平の胸の中で目を覚ました。昨夜、彼が語った言葉、そして彼が与えてくれた温もりは、夢ではなかった。目を閉じれば、今でも彼の優しい声が耳の奥で響いている。梓は、長年凍りついていた心が、ゆっくりと溶け始めているのを感じた。それは、冷たい氷が、温かい水になっていくような感覚だった。

 佐伯は既に目を覚まし、窓の外に広がる空を見つめていた。その瞳には、昨日までのような絶望の色はなかった。代わりに、何かを決意したかのような、強い光が宿っていた。二人は何も言わず、ただ互いの存在の大きさを感じていた。その沈黙は、これまでのどんな会話よりも雄弁だった。


 「…佐伯くん」。


 梓が彼の名を呼んだ。佐伯はゆっくりとこちらを向いた。その顔には、いつもの穏やかな微笑みが浮かんでいた。「おはようございます、高瀬さん」。その言葉は、まるで何事もなかったかのように、日常の挨拶だった。しかし、二人の間に流れる空気は、もう決して日常ではなかった。

 二人は、昨日の続きのように、言葉を交わし始めた。コーヒーを飲みながら、梓は自分の心に芽生えた感情をどう伝えればいいか迷っていた。佐伯は、そんな梓の葛藤を察したのか、静かに話し始めた。


「俺、高瀬さんと出会って、また明日が来るのが楽しみになったんです」。


 その言葉に、梓は内心で息をのんだ。彼もまた、自分と同じように、この終わりの世界に希望を見出していたのだ。

「俺、いつか高瀬さんと、一緒に仕事がしたいって思ってたんです。高瀬さんと一緒に、何かを成し遂げたいって」。

 その言葉は、絶望的な状況下で生まれた、真実の愛の告白だった。梓は、彼の真摯な言葉に、胸が熱くなるのを感じた。


 「私、今まで仕事にしか居場所がなかったの。でも、佐伯くんと出会って…」。


 梓は、そこまで言うと、言葉に詰まった。しかし、佐伯は、彼女の言葉の続きを待つように、静かに見つめていた。梓は、意を決して、彼の目を見つめながら言った。「私も、佐伯くんと出会って、また明日が来るのが楽しみになったの。仕事じゃなくて、佐伯くんと過ごす、明日が」。


 その言葉に、佐伯の瞳が揺れる。彼は、ゆっくりと梓に手を伸ばし、その手を取った。彼の温かい手が、梓の心を包み込むように感じられた。


 二人は、オフィスに広がる静寂の中で、互いの存在の大きさを感じていた。その時、佐伯は立ち上がり、梓を連れてある場所へ向かった。それは会社のサーバー室だった。


 「ここにあるデータ、全部消えちゃうんですよね」。


 佐伯は、そう呟いた。梓は、それが何を意味するのか、すぐに理解した。彼が「最後に成し遂げたいこと」とは、この会社のデータを復旧させることだった。それは、世界の終わりを前にしても、互いのために何かを成し遂げたいという、彼らの愛の象徴だった。

 二人は、協力してデータの復旧作業を始めた。それは、誰にも届かない、意味のない作業だった。しかし、二人は、黙々と作業を続けた。それは、互いへの信頼と、この瞬間を大切にしたいという気持ちが込められた、最後の仕事だった。

 作業を終え、データの復旧に成功した二人は安堵の表情を見せた。達成感と同時に、その成果が誰にも届かないという現実が、二人の心を再び絶望させた。しかし、そんな絶望の中でも、互いの存在だけが希望であることを確信する。

 ビルの陰に入り、二人は足を止めた。佐伯は、梓の頬に手を添え、優しく見つめた。その瞳には、深い愛情と、ほんの少しの切なさが宿っていた。

 「高瀬さん…」。彼の低い声が、梓の鼓膜を震わせる。二人の顔がゆっくりと近づき、互いの息遣いを感じる。佐伯の唇が、優しく梓の唇に触れた。それは、甘く、そして溶け合うような、大人のキスだった。焦燥や衝動ではなく、静かで、確かめるような、深い愛情を交わし合うキス。

 唇が離れても、二人の視線は絡み合ったままだった。言葉はなくても、その瞳には、未来への希望と、共にこの最後の瞬間を迎える決意が宿っていた。世界の終わりが迫る中で、二人の間に生まれた愛は、静かに、しかし確かに、輝きを増していた。

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