また春の『コインランドリー』で、

草歌りる

『春』

 無機質なモーター音と水の濁音。外は真っ暗で視界に入るのは回る衣類らのみ。まるで異世界のような深夜のコインランドリーを彼は気に入っていた。誰もいないこの空間、この時間は自分だけのもの。そのはずだった。しかし、春の陽気を感じ始めたその日、深夜のコインランドリーには一つの人影があった。


 自宅から数十分ほど歩いたところにあるコインランドリー。田んぼに囲まれながらポツンとあるそれは暗闇の中で眩い光を放っている。彼はいつも通り、溜めに溜め込んだ洗濯物を片手に向かうと違和感を覚える。近付けば近付くほどそれは確かなものとなる。大きな五枚のガラス、その奥のベンチに誰かが座っている。時刻は午前二時、人なんて来る途中の道ですら見ていない。なのに静かに佇むコインランドリーの中には確かに人が一人居る。


恐る恐る近付くとぼんやりとしていた人影がはっきりと確認できた。それは彼と歳の近そうな少女だった。斜め後ろからだが、白く若々しい肌が垣間見える。艶やかな黒髪は肩ほどまで伸び、小さな背中を丸めていた。


彼は一呼吸挟むと扉を開け、中へと入った。


ガラガラガラ


スライド式の扉が大きな音を立てるが、少女は気にも留めない。彼も目を逸らしてさっさと用を果たそうとした時、気付いてしまう。回る洗濯物をぼーっと見つめる少女は、頭から靴までびしょ濡れであった。雨は降っていないし、降った形跡すらない。しかし、目の前の彼女は全身を濡らしている。そんな異様な光景に彼の脳裏には嫌な考えが浮かぶ。


いじめか?


いや、しかしこんな夜中に?


彼の思考は巡りに巡った。しかし、納得のいく回答は出なかった。彼は一つ空けた洗濯機に洗濯物を入れ始める。一枚、二枚、三枚と次々に入れているとビニール袋に包まれたハンドタオルを見つけた。この間、買った安物が入れっぱなしになっていたらしい。偶然か必然か。目の前に濡れた少女。手にはタオル。既に常時とは異なる状況に正常な判断を濁らせていた彼は、タオルを彼女へと差し出した。


「よかったらこれどうぞ。使ってないやつです。安物なんで捨てちゃっても大丈夫です。」


彼自身も驚くほどスラスラと言葉が出てきた。それに彼女はゆっくりと顔を上げ、表情を変えることなく言った。


「ありがとう…」


洗濯機に掻き消されそうな弱々しい声。物憂げで綺麗な顔。こうして彼だけの異世界は『二人だけ』の異世界となった。



 勉学に追われる生活から逃げ出したかった山田漱栄やまだそうえいは、高校進学を機に地方へと出た。両親から強い反対を受けたが祖父母の助けもあり、中学卒業と共にすぐに一人暮らしを始めたのが三月。そして、彼女と出会ったのが四月五日のことだった。


あの日以来、彼女とは会っていない。ハンドタオルを渡した後、何も会話は無く洗濯を終えた私は逃げるようにその場を去った。結局、濡れていた理由も、あの時間コインランドリーにいた訳も知ることは叶わなかった。


だが、運命の悪戯か機会は早々に訪れた。それは入学式から二週間経ってからだった。


「なあ聞いたか?」


泰村が右肘を漱栄の机に突きながら尋ねた。本題を先に言わないのが彼の喋り方。二週間だけの付き合いだが漱栄はそれを理解していた。


「ミキちゃんが結婚した話か?確かにあれは驚いたな。まさか幼馴染と熱愛なんてな。」


「ちゃうちゃう。隣のクラスでカップルができたって話。」


「二週間でか?」


「早いやろ?なんか噂だと幼馴染だったとかなんとか。いいよなー彼女。俺も欲しいわ。」


「できないだろうな。」


「はあ?!分からんやろ!もしかしたら夏川さんと付き合うかもしれへんし。」


「夏川さん?」


「は?知らんのか?B組の夏川鏡花なつかわきょうか。めちゃくちゃ可愛いって噂になってたぞ。」


「噂って。毎度思うが何処から仕入れて…」


「お!噂をすればなんとやら、ほら、あの子や。」


彼が指差す先、ドアの向こうの廊下。窓際の彼等の席から遠目だったが漱栄ははっきりと見えた。それはコインランドリーで見た少女だった。しかし、あの時と違って明るい表情で友人らと話している。


「いやー可愛いよな。いぬみたいで。」


「いぬ?」


コインランドリーで会った時の印象とかけ離れた評価に戸惑うが、確かに今の彼女はいぬのように身体と表情をコロコロと変え、笑っていた。


まさかあんな明るい子だとは。


そんなことを考えていると彼女と目が合ってしまった。気味悪く思われるのを危惧し、すぐさま目を反らしたが、彼女は漱栄を見て明らかに驚愕していた。しかし、目を丸くしたかと思えば早々に平然を装い談笑を続けた。


もしかしたら他人の空似かもな。


彼は考えるのをやめた。


 彼が暮らす部屋は学校から少し離れた所にある。何故なら両親の許諾が取れなかった為、学生寮に入れなかったからだ。だが、案外不便なことはなく、寧ろ喧騒を嫌う彼にとって田んぼに囲まれた小さなアパートは楽園のような場所となった。欠点を挙げるとしたら洗濯機がないことだが、それも彼にとっては苦でない。


今日も彼は洗濯物を無造作にビニール袋に詰め、トートバッグ片手に家を出た。真っ暗な道をスマホのライトを頼りに歩く。闇に包まれた田んぼから無数の蛙の鳴き声が響き渡る。暫くすると大きな道が見え、等間隔に置かれた電灯が辺りを照らす。彼はスマホのライトを消し、誰もいないランウェイを進む。そして、見えてくるのは大きなスーパーマーケット。そこを左に曲がると目的地。無人精米所の横に立つ広い建造物、その看板には青い字で『コインランドリー』と書いてあった。


「え?」


思わず声が出てしまう。深夜二時、ほとんどの人が眠りについたその時間に、またもや人影があった。彼は、もしやと思いながら近付く。そして、やはりその人影はあの日の少女であった。


彼は平然と扉を開けた。


どうやら今回は濡れていないようだ。


とりあえず彼は無関心を貫こうと視線を手元の袋に移した。そして、洗濯機を開け、衣類を入れようとすると「こんばんは。」と声がした。不意の挨拶に彼は「えっと、こんばんは。」と言葉が詰まる。


挨拶ぐらいは普通か。


そんなことを思っていると彼女は続けた。


「これ、こないだの。」


彼女は綺麗に畳まれたハンドタオルを両手に乗せて差し出した。しかし、驚いた彼はそれが自分のものだと理解するのに少し時間を要した。彼女が「どうぞ。」と言ったところで、やっと気付くと慌てて受け取る。


「返さなくてよかったのに。」


「いえ、そういうわけには。とりあえず助かりました。ありがとうございます、山田さん。」


「え?どうして名前を…」


「昼に目が合った後、友人に聞きました。まさか同じ学校だったとは。」


「もしかして夏川さん?B組の。」


「はい。気付いてなかったのですか?確かに学校では少々立ち振る舞いが違うかもしれませんが、結構覚えやすい顔だと自負していました。」


「少々……自負…色々とツッコみたいことがあるが……もしかして、これを返す為だけに待ってたのか?」


彼は気付いた。どの洗濯機も回っていないことに。


「はい。貸を作るのが嫌いなもので。」


「は、はぁー。」


言葉に詰まってしまう。人付き合いを不得手とする彼にとって異性と話す事はカレーのシミを落とすよりも難しいことである。彼は誤魔化すかのように洗濯物を洗濯機と放り込んだ。『洗濯/乾燥5kg』を選び、お金を入れ、『スタート』を押す。すると、洗濯槽にぼちゃぼちゃぼちゃと水が流れ込む。そして、ウィーンぽちゃとドラム式洗濯機が回り出す。


気が付けば十分以上は経っていた。しかし、彼女はまだ隣で只管に回るカラフルな衣服を眺めていた。


「帰らなくて大丈夫?」


「うん。」


ぼーっとしているのか生返事な彼女。その顔は虚な目をしていて変な魅惑があった。


「嘘つきました。」


「え?」


「返す為だけに待っていた、というのは嘘です。本当は逃げたかっただけなんです。」


「逃げる?何から?」


「現実です。」


「現実か。」


何となく分かる気がした。この世界から隔離されたようなちっぽけな空間は、忙しない外の世界を忘れさせてくれる。


漱栄は彼女に少しばかり親しさを感じて、とある疑問を尋ねることにした。


「言いたくないならいいんだけど。こないだ会った時、なんで濡れてたの?」


すると彼女は躊躇うことなく言った。


「家の洗濯機が壊れたんです。それで濡れました。」


「洗濯機が壊れてあんな全身びしょ濡れになるか?」


「…つっこんだんです、頭から。」


「え?」


「だから、洗濯機が回らなくて覗き込んだら勢い余って入っちゃったんです。もういいですか?」


無表情な彼女の顔は少し赤ていた。


「そうか。それならよかった。てっきりいじめかと…」


「虐められてたんですか?」


「…どうしてそう思うの?」


「いじめかもって考えるのは虐められてたことがある人だから。」


「それは暴論じゃない?」


「でも虐めてる側はいじめに気付かない。」


"ピーピーピー"


洗濯機が止まった。


「じゃあ私、行きますね。じゃあまた学校で。」


「あ、うん。また。」


漱栄は止まぬ心音を聴きながら洗濯物を取り出した。


 翌週の月曜日。彼は重い足取りで校門を潜った。下駄箱の前では沢山の生徒の姿があった。彼は端っこの『1-A』と書かれた下駄箱へと向かう。


「な、夏川さん、おはよう!」


知らぬ男子生徒の声が聞こえた。振り返るとそこには夏川鏡花がいた。無表情とは程遠い純真無垢な笑顔を振り撒きながら四方八方から飛んでくる挨拶に手を振っている。


また…か


コインランドリーで聞いた台詞を思い返すが、何処か気の引けた彼は挨拶することなく上履きを取り出した。まだ新しい綺麗な上履きは少し大きい。片手を突いて右足を上げ、上履きを履く。そして、今度は左、と足を上げたその時、ポンと肩を叩かれた。その方に振り向くが人は居ない。不思議に思い反対を向くとそこには、友人の肩を借りて上履きを履く彼女の後ろ姿があった。


もしかして挨拶?


ほんのりと残る肩の感触は確かに叩かれたことを語っている。これはなんというか——


「よう!山田!おはようさん!」


急に肩にのしかかった重さに蹌踉けてしまう。それは泰村だった。


「俺に会えなくて寂しかったか?」


「いや、むしろ快適だった。」


「ひ、ひど!」


漱栄は彼の腕を払って上履きを履いた。もうそこに彼女の姿はなかった。何とも言えない不快感が彼を襲う。


「お、おい!待ってくれへんの?!」


彼はその声を背に教室へと向かうのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る