あなたの鼻
@5cmSergeant
第1話
犬は潮の香りを届けます
憧れの観光地、とテレビでは紹介されるけど、この港町は暮らすにしては困りごとが多い。洗濯物は外で干すと潮と砂でジャリジャリになるし、車もエアコンの室外機もあっという間に赤茶色のサビが出来る。確かに魚は美味しいけど、毎日食べていたら流石に飽きてしまう。
「それじゃ、行ってくる。お土産、期待しとけよー?」
「うん、行ってらっしゃい」
父さんがニカっと笑みを浮かべて少し黄ばんだ歯を僕に見せた。お土産、と言っても売り物にならない魚に決まってる。小さければ丸ごと熱々の油に放り込んで、大きければ母さんが捌いて刺身とあら汁になるのがいつものパターンだ。父さんが漁に出る時間に合わせて家族全員が朝ご飯を食べるから、学校へ向かう八時まで残り四時間はある。もう一眠りしようかと部屋へ向かったとき、傷とシミだらけのちゃぶ台の上にある物に気がついてた。
「……父さん、時計忘れて行っちゃってる」
古くても丁寧に手入れされている鈍い金色の懐中時計は母さんからデートの時にもらったんだと父さんがいつも自慢していたお気に入りのものだ。海では電波が届かないし荒波の中でいじっていられない……なんて父さん本人は言うけど、絶対違うと思う。父さんの仕事仲間は皆スマホを使ってるのを見たことがある。テレビドラマで映っていたように会社で働く人が机に家族の写真を置いて元気をもらうのと似たような扱いに違いない。……だからこそ、父さんは困るだろうなあ。
「ああもう、仕方ないなあ」
細い鎖を時計本体にグルグル巻きにして握りしめ、僕は夜明け前の湊へ向かって飛び出した。むわっとする磯の香りのする熱気を全身で受けながら船着き場へ走る。確か船が出航していなければプレハブ小屋でスポーツドリンクと塩飴を肴にムキムキの漁師さんに囲まれてお喋りしているはずだ。しかし、休憩所には誰もいないし、止まっているはずの船も見当たらない。これじゃあ走り損だ。全力疾走してきた身体をエコロジー? なんか地球に優しいって先生が言ってたものより命を優先した温度設定のエアコンの風が一気に冷やしていく。紙コップを失敬して飲みかけのスポーツドリンクを一杯引っかけていると、金属板で出来ているはずの建物のはずなのに木の扉が目に入った。ルームプレートには【あなたの鼻】と丸っこい文字で書かれている。板チョコみたいなデコボコの細工のしてある扉は校長室の入口よりも豪華だ。
「……こんなドア、あったっけ?」
ニスか何かで天井の電気を反射している扉は明らかに扉の絵や板きれではない。そもそも漁師小屋にそんなものを置く必要もないはずだ。それに、何よりも【あなたの鼻】がどんなお店なのか気になって仕方ない。そして引き留める人がいないなら、やることは一つだけだ。
「よい、しょ……っと」
扉は重かったが、少し体重をかけたらスムーズに開いた。開けた瞬間にお日様の匂いがふんわりと香る。木で出来た家具とクッションだらけのカラフルな部屋は児童館のプレイルームみたいだ。そもそも部屋に繋がっている時点でおかしいのだけど、扉の先は漁師小屋とは全然違うところだった。
「犬は貴方をいらっしゃいませしたいと思っています」
「犬が喋った⁉ ……って機械の声?」
僕を出迎えたのは黄色っぽい色の毛並みをした大きな犬だった。確かゴールデンレトリバーって名前だったはずだ。足の短いテーブルと向かい合うように柔らかそうなクッションが椅子の代わりに置かれていて、部屋の中には犬以外に生き物の気配はない。
「……何、ここ」
「犬は【あなたの鼻】になることを望んでいます。犬は貴方が探しているものを見つける手伝いをします」
どうやら機械の男の人っぽい声は犬の首輪から出ているらしい。首輪の持ち主はふんふんと僕の握りこぶしの匂いを嗅いでいる。
「探しているもの……そうか、父さんが捜し物なんだ! この時計の持ち主を探してくれない?」
「犬は貴方の望みを叶えたいと考えます」
「わ、分かった。こいつを持てばいいんだな?」
わんっ、と始めて犬が誇らしげに鳴いた。ぽてぽてとベッドらしいクッションの山へ行ったと思うと赤い革で出来たリードを咥えてきて尻尾を振っている。金具をはめて、と言っているように首を上に向けているので、そのままリードを繋いだ。
「よし、と……。なあ、名前は?」
「犬は犬です。哺乳網食肉目犬科の生き物です。犬は撫でられるのが好きです」
「いや、そういうことじゃなくて……」
わふ? と首輪の持ち主は小首を傾げた。飼い犬みたいだけど人の気配は部屋からはしない。勝手に連れ出して飼い主の人は困らないのだろうか。機械の声の言うように恐る恐る犬の首の下を撫でると、ころん、とうっとりした顔でお腹を見せた。もっと撫でろと言っているみたいだ。しばらくわしゃわしゃと撫でていると、満足したのか犬は起き上がって僕が入って来た扉に向かって鼻をヒクヒクさせた。
「分かった、一緒に父さんを探しに行こうか」
「わんっ!」
「犬は貴方の父親を探す手伝いをします」
大小のクッションを踏まないようにフカフカのカーペットをつま先立ちで歩き、プレハブ小屋へ繋がる扉を開ける。ガンガンにエアコンを効かせた殺風景な室内が見えるはずだった場所からは発泡スチロールが山積みになった濡れたコンクリートが見えた。……間違いない。朝市の場所だ。確か六時から開いているはずの市場がもう開いている。懐中時計を見ると時刻は六時一八分を告げていた。
「……二時間お前を撫でてた、なんてことじゃないよな?」
「犬はビックリにはなりません。【あなたの鼻】は無くし物の見つけられる時間と場所をくんくんして繋げます」
「……マジで?」
「ほら、そこどいて! 釣りたてホヤホヤが通るよ!」
慌てて道を空けると木のドアはどこにもない。だけど、夢や幻覚にしては磯の香りも手のひらの温度でぬるくなった懐中時計のすべすべした感触も本物だ。
「え? もう見つけたのか?」
鼻をピクピクと動かし、金色の毛並みはリードを引っ張る勢いで市場の隅っこへ進んだ。向かう先に父さんの姿は見当たらないけど、捕った魚が積まれているのだろうか。だけど、その予想は完全に空振りに終わった。
「お、おい! 今そんなことしてる場合じゃないだろ!」
「犬はごくごくした水が強い塩味で混乱しています」
「そりゃ海水だからな!」
魚を生きたまま売っているプラ容器の水面に鼻先を突っ込んだ犬は毛並みをブルブルと震わせた。翻訳機のことを信じるなら、海水のしょっぱさが不満だったらしい。見渡してみても父さんらしい人影は見当たらない。市場の出口へ向かおうとした時、犬は再び足を止めた。
「待った、もうここに用は無いだろ」
「犬はトゲトゲが痛いと言っています」
可哀想に、とは思わなかった。ウニの詰まったケースに鼻先から突っ込んでいって痛いと文句を言われても困る。人に馴れてて賢いと思ってたけど、今の様子を見る限りだと思ったよりお馬鹿なのかもしれない。
「きゃうんっ!」
「犬は卑劣な不意打ちに怒りを表明しています」
「あ、また商品にちょっかい出して……。ほら、今外してやるから」
ガヤガヤして騒がしい中で聞こえた犬の悲鳴で視線を向けると、前脚に大きなカニのハサミが食らいついていた。ゴツゴツした甲羅を掴んで持ち上げて助けてやると機械の声でお礼を言われる。用の無い場所をフラフラしている余裕なんて無いのに、どこまでもマイペースだ。
「あら、わんちゃん連れでおつかい? 偉いねえ、ほらお食べ」
「犬は細長いぐにぐにを気に入りました」
「あっ、こら! 人から物を貰ったら食レポじゃなくて、ありがとうって言うとこだろ⁉ おばちゃん、ありがとうございます」
いいのよお、とふっくらした割烹着のおばちゃんにキラキラした目を向けて、犬はイカの足の追加を欲しがっている。こんなところで時間を潰している場合じゃないのに、イライラしている僕のことなんてどうでもいいみたいだ。
「なあ、父さん探しのこと忘れていないよな?」
「犬は美味しいものを食べて満足しています」
「マジかよ……。お前の食べ歩きに付き合ってるわけじゃないっての!」
きょとん、とした目で犬は僕の方を見上げた。……本当にこいつのことを信じていいのだろうか。のろのろと干物と海水の匂いがする市場から出口に向かう犬に着いていく。通い慣れた場所だけど、犬しか頼れない父さん探しなら僕は大人しく犬のペースに合わせるしかないのだ。
時折鼻をヒクヒクさせたり来た道を戻ったりさせているけど、犬は父さんが行きそうな場所に掠りもしない場所ばかり町歩きをしていた。時計もスマホも持ってきていないけど、太陽が眩しいから七時くらいになっているのかもしれない。
「ええ……このクソ暑い中で上り坂かよ」
「犬は風が気持ちいいと言っています」
「そりゃ風は通るだろうけど……そうか! 丘の上なら父さんの姿が見つけられるかも!」
いっそ階段の方がマシじゃないかと思うような丘まで続く急坂に向かって犬はずんずんと歩き出した。スニーカーの中で靴下がずり落ちそうになりながらリードを持つ。観光客は丘の上から町全体を見渡して写真を撮っているけど、住んでいる人の大半は散歩コースにすら使わない。ぼったくり価格の自販機と屋根すらない古いベンチしか無い場所なんてつまらないからだ。たまに母さんが行ってたけど、確かのろけ話だったはずだ。
「あー……確かに父さんと母さんの初デートがここって言ってたな。オシャレしてこの坂を歩かせるのはどうかと思うけど。お前はどう思う?」
「犬は貴方が探しているものが近くにあると推測します」
どうせ沢山お散歩出来て嬉しいです、とか言うのだろうと思っていたから機械の声は意外なものだった。匂いなら市場の塩気たっぷりの匂いを嗅いでも時計についた父さんの匂いは覚えていたみたいだ。坂道は一本道だから、父さんがいるとしたら頂上のベンチに決まってる。
「本当に坂の上にいるんだな⁉ 行くぞ、上まで競争だ!」
「わんっ!」
「犬は貴方の持ちかけた争いを尋常に勝負したいと考えています」
どたどたと坂を一気に駆け上がる。熱くて湿った空気のせいで上手く息が出来ない。これだから夏は嫌なんだ。しょっぱい匂いの向かい風が身体を冷やしてくれて気持ちいい。少しずつ坂のてっぺんが近づいていき、上りきると本当に父さんがベンチに座っていた。丸まった背中はショボンとしている。いつもなら漁が終わった後の船の整備をしているはずなのに。
「父さん……?」
「おい、そろそろ学校に行く時間だろ。なんでこんなとこに……」
「忘れ物を届けに。こいつが時計の匂いを覚えて連れてきてくれたんだ」
「犬は給料分の仕事はしたと満足しています」
父さんはぼんやりと遠くを見ていたけど、僕を見つけて目をパチパチさせた。このまま父さんが見つからなかったらどうしようと心配だったのなんて、きっと父さんは気づいていないのだろう。パタパタと犬が尻尾を振っているのだから、僕にもこいつのの気持ちは分かる。人間ならどや顔で褒めて! と言っているようなものなのだろう。父さんに汗で濡れてぬるくなった懐中時計を渡し、そのまましゃがんで犬をわしわし撫でる。二度寝の時間を潰した張本人……本犬? は息を荒げて反対側も撫でろと寝返りを打った。
「人ん家の犬なんて連れ出していいのか……?」
「犬から手伝うって言ってくれたし……。父さんの方こそ漁はどうしたの?」
「時計が見当たらなかったから早めに切り上げさせてもらった。思い出の場所に行けば何か閃くかも……って思ってボーッとしてたらお前がやってきだってわけだ」
ふーん、と返事をするけど、犬を撫でる手は止めない。撫でる手を離そうとすると悲しそうな顔をしてくるのだ。
「そうだ、これやるよ」
父さんはライフジャケットの胸ポケットから太いロープを取り出し、両端を固結びして犬に渡した。
「それ、網を引っ張る縄だよね? 切れてるけどいいの?」
「大物が入ってたらぶっ壊れた。こりゃ買い直しだな。でかいイシダイが暴れて千切れたやつだが、犬っころが齧ったくらいじゃビクともしないだろうよ」
「犬は塩味が効いていて美味しいと絶賛します」
「だから食い物じゃないっての!」
早速ロープを満足げに齧る犬を見る父さんは疲れてるけど優しい目をしていた。猫派だって言ってたけど、犬も嫌いではないのだろう。ジーンズのベルト紐に時計の鎖を取り付けると、父さんはベンチから立ち上がった。
「あと二〇分で八時だが……家までランドセルを取りに戻る体力は残ってるか?」
「げぇ……今度はあのクソ坂を駆け下りるのかあ……。あ、その前に犬を帰してやらないと」
視線を下に向けても犬の姿は無い。坂を下りたわけでもなさそうだし、見回してみても金色の塊はどこにも無かった。
「父さん、その紙は?」
「そんなのあったか……?」
父さんの座っている横に画用紙みたいな厚さでツルツルした紙が落ちていた。【あなたの鼻 領収証 美味しいロープ】と書かれている。
「領収証……? レシートみたいな?」
「よく分からないが、お前が持っておけよ。お代を頂戴するようなことをしたのは俺じゃないし」
「そうだね」
ありがとう、と犬へ向けたお礼は潮風に解けていく。紙からはクッションだらけのお店と同じで、お日様の匂いがほんのりと残っていた。
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