波間に消えた麦わら帽

階段甘栗野郎

波間に消えた麦わら帽

あれは、小学五年生の夏休みのことです。


家は海沿いの町にあり、国道を挟んだ向こう側には砂浜が広がっていました。


潮風はいつも生ぬるく、家の壁や窓枠は海から運ばれた塩で白く曇っている。


毎年の夏休みは、午前中に宿題を済ませると、午後は友達と海へ行き、麦わら帽をかぶって日が暮れるまで遊びました。


しかし、その年は、例年にも増して暑かった。


朝から照りつける日差しは肌を刺し、アスファルトの上にはゆらゆらと空気が揺れていました。


息をするだけで、肺の奥に熱がたまるような感覚があり、耳の奥で自分の鼓動がやたらとうるさく響きました。


父は「今日は蜃気楼が出やすい日だな」と言っていましたが、当時の俺にはその意味がよく分かりません。


ただ、道路の向こうに現れる水たまりのような光景を、面白がって見ていた。


近づくと消え、離れるとまた現れる・・・それが子供心に不思議でたまらなかった。


その日も、昼過ぎに麦わら帽をかぶって一人で海へ向かいました。


いつも一緒に遊ぶ友達は、午前中から家族と遠出していて、今日は夕方まで戻らないという。


家にいても暑くてたまらないので、一人で浜辺で貝を拾ったりして時間を潰そうと思ったのです。


国道に出ると、遠くの景色がゆらゆらと揺れていました。


水平線の向こうに島影が見えるはずなのに、その輪郭がぼやけ、まるで空に浮かんでいるようでした。


熱気が肌にまとわりつき、背中を伝う汗がシャツにべったりと貼りつく。


信号を渡り、砂浜へ続く細い路地に入ると、両側には古びた民宿や小さな海の家が並んでいました。


窓の簾は動かず、蝉の声だけがうるさいほど響いている。


ふと、路地の奥に、こちらに背を向けた小さな人影が見えました。


麦わら帽をかぶった女の子です。


白いワンピースを着て、裸足で立っている。


年は、たぶん俺と同じか、少し年下くらい。


その姿は陽炎の向こうに揺らいでいて、見ていると輪郭がふっと薄くなるようでした。


「おーい!」


声をかけたが、女の子は振り向かず、ゆっくりと路地を歩きだしました。


足の運びが妙に遅く、足首から下が影に溶けるように見える。


俺は不思議に思いながらも後を追いました。


路地を抜けると、白い砂浜がまぶしく広がりました。


潮の匂いと、熱せられた砂の匂いが混じり、足元からじりじりと熱が上ってくる。


女の子は浜辺を横切り、防波堤の方へ歩いて行きます。


その背中は揺らめき、時々、蜃気楼の中の映像のようにふっと途切れた。


防波堤の先端まで来ると、海が広がり、その向こうに—・・・信じられない光景がありました。


水平線の上に、もう一つの浜辺が浮かんでいるのです。


空の青と海の境目に、別の砂浜、別の町のようなものが逆さに映って揺れている。


蜃気楼だ、と直感しました。


しかしそれは教科書に載っているような、ぼんやりした映像ではありません。


異様なほど鮮明で、家々の屋根、浜辺で遊ぶ人々の姿まで、はっきりと見える。


そしてその光景の中にも、麦わら帽の女の子がいました。


俺の目の前にいるはずの女の子が、蜃気楼の中からもこちらを見ている。


海風が吹いたわけでもないのに、背筋に冷たいものが走りました。


やがて、目の前の女の子は、防波堤の先端から海へ入っていきました。


足首まで、膝まで、やがて腰まで水に浸かっても歩みを止めない。


まるで、向こうの「浮かんだ浜辺」に向かっているようでした。


呼び止めようと口を開いたが、喉が張り付いたように声が出ない。


耳の奥で自分の心音だけが響き、視界の端で空が白く瞬きました。


女の子は胸まで海に沈み、次の瞬間——蜃気楼の中に溶け込むように姿を消しました。


同時に、頭の中に熱がこもったような感覚が広がり、視界が真っ白になりました。


気がつくと、俺は砂浜に立っていました。


しかし、潮の匂いはせず、代わりに土と草の匂いが鼻を突きます。


振り返ると、そこには海ではなく、干上がった湖のような広い地面が広がっていました。


遠くに女の子が手招きしています。


町並みは俺の知る海辺の町によく似ていましたが、どの家も窓が暗く、人影はなかった。


蝉も波も聞こえず、ただ風がひゅうひゅうと吹き抜ける音だけが耳に残る。


女の子は何も言わずに歩き続け、やがて古びた駄菓子屋の前で立ち止まりました。


くるりと振り返ったその顔は笑っていました。


しかし、目は黒く塗りつぶされたように真っ暗で、奥が見えませんでした。


「・・・ここ、涼しいよ」


井戸の底から響くようなくぐもった声。


背筋が総毛立ち、逃げようとした瞬間、足元の地面がずぶりと沈み、膝まで埋まりました。


必死にもがくうちに、耳鳴りがして視界が揺れ・・・気がつくと、防波堤の上に立っていました。


海は穏やかで、水平線には何もない。


蜃気楼も、女の子も、どこにもいない。


ただ、頭にかぶっていたはずの麦わら帽が消えていました。


家に戻ると、母が驚いた顔で言いました。


「どこ行ってたの?・・・帽子はどうしたの? あれ、おじいちゃんが小さい頃かぶってたやつなのに」


祖父は俺が生まれるずっと前、夏休みに海で行方不明になったという。


それから何度も防波堤に立ってみましたが、あの日のような蜃気楼は二度と見えませんでした。


ただ、一度だけ・・・夕暮れ時、国道を歩いていると、向こう側の路地に小さな人影が見えました。


麦わら帽をかぶった女の子が、陽炎の中で手招きしていたのです。


あの日から、あの女の子を見ることはなくなった。


けれど真夏の午後、蜃気楼が揺れる海を見ていると、無性に麦わら帽が欲しくなる。


ある年の夏、押し入れの奥から、色あせた麦わら帽が出てきた。


縁には、俺の名前ではない古い刺繍があった。


それは祖父の名前だった。


手に取った瞬間、部屋の窓の外で、蝉の声がぴたりと止んだ。


振り向くと、路地の向こうで麦わら帽の女の子が、陽炎の中でじっとこちらを見ていた。


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波間に消えた麦わら帽 階段甘栗野郎 @kaidanamaguri

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