第3章 天空からの滑空
1. 望郷の旅路
長く困難な旅になることは、伝説の地ヴィーダ修道院から降り立った時点でわかってはいたが、馬もない金もない。ましてや、地位や権力など何の意味も持たない今の現状をどう対処していけばよいのか、白馬の騎士ヴァイスには見当もつかなかった。
ポーランツ王子には何か確固たる信念があるのか、ただ望郷の念だけで突き動かされているのか、白馬の騎士ヴァイスにはわからなかったが、彼は黙々と平原を歩き続けていた。
◇
どのぐらいの距離を歩き続けていたのだろうか。身も心も満たされている時の春の空気は心地よいものだが、飢渇状態の身体には緑豊かな平原にいても灼熱砂漠にいるように感じられた。今にもラシエナガ城の蜃気楼が見えてくるのではと思えるほど、ポーランツ王子と白馬の騎士ヴァイス二人の意識は朦朧としていた。
「ハフェンベルグに着く前に朽ちてしまうのは、ごめんだ……」
白馬の騎士ヴァイスから初めて弱音がもれた。
「お前にしては弱気だな、白馬の騎士ヴァイス」
ポーランツ王子は振り返り笑顔を見せた。
「………」
「さあ、先を急ごう。じきに日が落ちる」
「ああ」
と、白馬の騎士ヴァイスは声をしぼりだした。
緑眩しい平原を、ポーランツ王子と白馬の騎士ヴァイスは無言のまま歩き続けた。それは、意識が朦朧としているからでなく、口を開けばすべてが蒸発して簡単に消え去ってしまいそうだったからだ。
ポーランツ王子と白馬の騎士ヴァイスの体力は、もう限界に近づいていた。身体は火がついたごとく熱く感じるのに汗が出ていなかった。
とくに白馬の騎士ヴァイスの脱水症状はひどく、口元は彼が身に着けている服よりも白く、すでに意識混濁状態がはじまっていた。
「ヴァス、しっかりしろ! ほら、水を、水を口に含め」
ポーランツ王子は、腰に下げていた水袋から残りわずかな水を白馬の騎士ヴァイスに与えた。
「こんなところで朽ちたくないのだろ。だったら、しかっりと飲め」
白馬の騎士ヴァイスは水袋を差し出すポーランツ王子の腕を掴み、その行為を拒んだ。この期に及んで主君を守ろうとするその姿にポーランツ王子は己の立場を恨んだ。
今は、この臣下を守ってやれるのは自分だけだと強く感じ、白馬の騎士ヴァイスの腕を払い、ポーランツ王子は自分の口に水を含んで口づけをするように、彼に水を飲ませた。
すべての水を飲み切り、ポーランツ王子と白馬の騎士ヴァイスは薄れゆく意識の中で、ハフェンベルグ王国で過ごした幼き頃を思い出していた。
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「ポーランツ、ヴァイス。騎士見習い入寮おめでとう。二人の顔をしばらく見られなくなるのはつらいですが、りっぱな騎士になるためですものね」
気品があり聡明な美しき王妃テレサが、やさしい微笑みを添えてポーランツ王子と臣下として仕えているヴァイスに言葉をかけた。
10歳になったばかりのポーランツと、12歳になったヴァイスの騎士見習いを祝う晩餐会がラシエナガ城の大広間で開かれ、たくさんの客人で賑わっている。
「母上は、私たちと離れることを喜んでいる」
と、ポーランツはいつも細目がちの目をさらに細めて言った。
「王妃様が、心から喜んでおられると思う? 自らの愛しい子が戦場へ駆り出されるかもしれないんだ。うれしいわけがないだろ」
ヴァイスはポーランツをたしなめるように返した。
コソコソと話しているポーランツとヴァイスに気づいた王妃テレサは、陰りある眼差しを刹那に向けた。
「私は、怖いのだ。ヴァス」
「僕だって、死ぬのは怖い」
「ウウン、違うんだ。死ぬことも怖いけれど、この国が、この世界が」
ポーランツは恐怖で言い淀んでいるのだろうと、ヴァイスは思った。
「どうした?」
ヴァイスはポーランツの碧い瞳を覗き込んだ。そこには心配そうにポーランツを見つめるヴァイスの姿が映り込んでいる。
「ヴァスと、一緒にいられなくなってしまうかもしれないって考えると、とても怖いんだ」
「大丈夫、僕はどこにも行かないよ」
そう言うとヴァイスは、テーブル下の腕を伸ばし、同じテーブル下のポーランツの膝上にある彼の手を握った。しっかりと結ばれる指と指。
鐘が鳴るような食器類があたる騒然とした雰囲気の中、ポーランツとヴァイスは二人だけの別世界を構築していた。
5歳の時から片時も離れずにいたポーランツ王子。今、こうして手を繋ぎ心を通わせている感覚は、弟に対する慈愛の念とは少し違うとヴァイスは思った。
胸の奥が締め付けられ痛いような、くすぐったいような、ヴァイスが初めて経験する感覚だった。
「ヴァス、ここを抜け出そうよ」
ポーランツが悪戯っぽい視線を飛ばしてきた。
「エンゲルの丘へ行こうか」
と言ってヴァイスは、ポーランツの手を強く握った。
「あの丘から見える満月は格別だものね」
「僕ら二人だけの、秘密の丘だからだよ」
「そう……二人だけの」
楽しそうに微笑み合っているポーランツとヴァイスをやさしく見守る王妃テレサ。大人たちの宴うたげは最高潮を迎えても、主役であるポーランツとヴァイスがいなくなったことを王妃テレサ以外は気づかずにいた。
◇
ポーランツとヴァイスはラシエナガ城から少し離れた『天使』と呼ばれる丘に来ていた。
何度か二人で城を抜け出してはこの丘に訪れ、変わりゆく星空を眺めていた。
今夜は満月だ。明るい月の光りが小さな騎士見習いを照らしている。
ポーランツとヴァイスは無言のまま、黄金のように光り輝く満月を見つめている。どちらともなく差し伸べられる手と手。しっかりと重なり合った二人の指。
「満月って、不思議な力がある」
ヴァイスが先に口を開いた。
「どんな?」
「無理だろうと思っていたものでさえ、引き寄せるんだ」
「そうだね」
と言ってからポーランツはヴァイスへ碧い瞳を向けた。その瞳は大きく開かれ、月明りを反射して輝いていた。
ポーランツとヴァイスは、しっかりと手を繋いだまま、また丸くきれいな満月を見上げた。
「ずっと、傍にいてくれ。ヴァス」
「どこにも……行かないさ」
お互いの言葉を確認すると、ポーランツ王子と白馬の騎士ヴァイスは完全に意識をなくしてしまった。
緑豊かな平原へ、まるで夢の中へ飛び込むようにポーランツ王子と白馬の騎士ヴァイスは崩れ落ちていった。
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