第六章 そして妃は寵愛の冠を戴くー①

 翌日、璃華が後宮へ戻ると、すでに知らせを受けていた阿李が歓喜乱舞して飛び出してきた。


「娘々〜っ、よくぞご無事で……!」


 芙蓉殿の門前で、顔を涙で濡らした阿李が、璃華にしがみつくように抱きつく。


「ご、ごめんなさい……し、心配をかけてしまって」


「何をおっしゃいますか。大変だったのは娘々ではありませんか。貴妃様の呪術によって天人攫いに遭われていたのでしょう? 本当によくぞご無事で……。やはり娘々には、天のご加護があるのですね」


 天人攫いは古くからの伝承で、戻ってきた者は神意を賜ったとして敬われる風習がある。

 璃華は天人攫いではなく、猫になっていたのだが、いくら阿李といえど、真実を軽々しく口にするべきではないと思った。


「そ、そう……記憶がまるでなくて……」


 人が猫に化けるなど聞いたことがない。

 すでに多大な心配をかけてしまっているので、これ以上余計な不安は与えたくない。

 璃華は、黎煌が用意した嘘に、黙って従うことにした。


「それでは、余は公務に戻るとしよう。璃華を頼んだぞ」


 皇帝の声に、阿李はハッとして深々と拱手の礼を取った。


「こ、ここまで……わ、わざわざお送りいただき、あ、ありがとうございました」


 黎煌は自ら後宮まで璃華を送り届けてくれたのだ。

 璃華へと薄く微笑みを向けると、彼は踵を返し、来た道を静かに引き返していく。背後には宦官たちが控え、無言でそれに従った。


(……行ってしまわれた)


 胸の奥に、ぽつりと小さな寂しさが灯る。

 昨夜も同じ寝殿で夜を過ごしたが、黎煌は終始手を出してこなかった。

 触れられたのは──抱きしめられた、あの一度きり。


(きっと、また来てくださるわよね?)


 黎煌の想いは知っている。猫の姿であった時、思わず赤面してしまうほど、まっすぐな本音を聞いてしまった。

 だから、以前のように不安に苛まれることはない。

 けれど、あの夜のように、同じ空間で過ごしたぬくもりが遠ざかるのは、やはりどこか寂しいのだった。


「さあさあ、娘々、お疲れでしょう。早くお部屋でお休みを」


 阿李に手を引かれながら、璃華は芙蓉殿の中へと足を踏み入れる。

 ──ようやく、戻ってきた。

 けれどそれは、終わりではない。ここからが、新たな後宮での日々の始まりなのだ。



 璃華の後宮での日々は、それまでの虐げられた暮らしとは一変していた。

 後宮を仕切っていた貴妃は死罪となり、天人攫いを経て神意を賜った璃華は、一躍「選ばれし者」としての箔を得た。女官も妃たちも、皆が一目置くようになったのだ。


 さらに、皇帝自ら「璃華を皇后に立てる」との冊命さくめいを公式に発した。

 その知らせを受けたとき、璃華は思わず言葉を失った。

 黎煌の想いは知っていた。猫の姿で聞いたあの本音は、嘘ではなかったと信じている。

 それでも、まさか「皇后」にまで据えようとするとは、思ってもみなかった。


 阿李や下女たちは、璃華の大出世に歓声を上げてはしゃいでいたが、璃華はどこか現実感を持てずにいた。

 何かの間違いでは──そんな気持ちをぬぐいきれないまま、冠礼かんれいの儀式の日取りまで決まってしまった。ここまで来れば、もはや覚悟を決めるしかない。


 けれど──

 黎煌が璃華を後宮に送り届けたあの日から、ひと月が過ぎようとしていた。

 それ以来、一度も夜渡りはない。つまり、黎煌とは、それきり顔を合わせていないのだ。

 それなのに、儀式の準備だけが着々と進み、周囲は浮き立っている。

 璃華の心だけが、取り残されていた。


(国家反逆という大罪があったのだもの。未然に防げたとはいえ、お忙しいのは分かっている。でも、ほんの少しでも、会いに来てくれたらよかったのに)


 璃華のほうから、会いに行くことはできない。

 猫だった頃は、あんなにも自由にそばにいられたのに。人の姿に戻ったとたん、遠くなるなんて、皮肉な話だ。


(でも……皇后になれたら、きっと)


 黎煌の愛情表現が、不器用なことは知っている。

 おそらく彼は、正式な手続きを経なければ、璃華と夫婦として向き合うべきではないと思っているのだろう。

 それはきっと、璃華を誠実に想ってくれている証でもある。


(だから、次にお会いできた時は、ちゃんと伝えなければ。私の言葉のことも、私の気持ちも……)


 璃華はそう静かに心に誓った。

 そして、ついに──冠礼かんれいの儀式の朝がやってくる。



 暁の陽が瓦屋根を照らし、太極殿の金扉が、重々しい音を立ててゆっくりと開かれた。

 天子の玉座へと続く玉階の下。

 璃華は、濃い青地にきじの文様と小輪花を織り込んだほうに、袖口を彩る紅色には雲竜紋うんりゅうもん織金しょっきんが映える、由緒正しき翟衣たくいをまとっていた。


 頭上には、華やかな鳳冠ほうかんが重く輝き、歩揺ほようがかすかに揺れて頬に触れるたび、璃華の胸の奥で心臓が小さく跳ねた。

 左右に居並ぶ百官が、いっせいに頭を垂れる。

 太常の礼官が高らかに冊文を読み上げる声が、広大な殿内に凛と響き渡る。


「天の命により、皇帝ここに命ず──蘇璃華を皇后に冊し、万民を導く中宮ちゅうぐうとす」


 璃華は石畳に両手をつき、額を静かに地に伏せた。

 やがて顔を上げると、冕服べんぷくを身にまとった黎煌が、玉階の上から静かに璃華を見下ろしていた。


 黒地に金の龍が舞い、胸元には日輪と月華の紋が燦然と輝いている。

 頭上の冕冠べんかんから垂れる十二旒じゅうにりゅうの玉飾りが、わずかな風に揺れ、光を受けてほのかにきらめいた。

 緊張に震える指先を必死に握りしめながら、璃華は声を絞り出す。


「あ、ありがたく……拝し奉ります」


 わずかに言葉は詰まったが、その声は、確かに彼に届いた。

 黎煌のまなざしがふっと和らぎ、ゆっくりと立ち上がる。

 群臣がひれ伏す中、彼は静かに玉階を下り、璃華のもとへと歩み寄った。

 そして、そっとその手を取り、低く穏やかな声で告げる。


「余の中宮よ。これからは、余と並び、共に歩んでくれ」


 その顔は相変わらず氷のように凛としていたが、声には確かな慈しみが滲んでいた。

 緊張でこわばっていた璃華の頬が、ふっと緩む。

 それを見た黎煌の表情も、春の陽に触れた氷のように、静かにほころんでいく。

 視線が絡み合い、手のひらに伝わる温もりが、じんわりと胸を満たしていった。

 二人は、ほんの少しだけ恥じらうように微笑み合った。今この瞬間、夫婦となった幸せに包まれていた。


 そんな黎煌の柔らかな微笑みに、殿中の臣下たちからどよめきが起こる。

 しかし臣下たちは、やがてその様子に自然と顔を綻ばせ、静かな祝福が、太極殿の空気をやさしく満たしていった。

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