第五章 玉座の決断、真を暴くー①

 朝日が高く昇ったころ、黎煌はいつもより遅れて宮廷に姿を現した。

 執務室に入るや否や、すぐ後を追うように禁軍大尉が入室する。重い扉が静かに閉じられた。


「陛下、本日はずいぶんと、ごゆっくりのご登朝でございましたな」


「ああ……今朝、起きたら小璃がいなかったんだ」


 黎煌は文机に腰を下ろすと、積まれた書簡の山に手を伸ばした。


「小璃? ああ、あの黒猫のことですか」


 黎煌は応じず、無言のまま仕事に目を通しはじめる。

 いつも通り感情の読めない冷ややかな面差しだったが、蒼白い頬は心労の色を隠しきれていなかった。


「猫は気まぐれなものでございます。すぐに戻ってきますよ」


「……そうだといいが」


 何気ないように振る舞っていたが、黎煌の心は穏やかではなかった。

 仕事に没頭しなければ、じっとしていられないほど胸の内はかき乱されていたのだ。


(小璃……どこに行った。お前まで、俺のもとを離れてしまうのか)


 璃華が姿を消してから、唯一の心の支えとなっていたのは、あの猫――小璃だった。

 その柔らかな毛並みを抱きしめていれば、まるで璃華がそばにいてくれるような気がしたのだ。


「……それより、世間話のために執務室へ来たのか? 俺は忙しいのだが」


 黎煌は眉間に深い皺を刻み、鋭く禁軍大尉を睨んだ。

 咄嗟に大尉は背筋を正し、一歩前に進み出る。


「実は、昨夜、後宮に何者かが忍び込んだ形跡がございました」


「……なに?」


 黎煌の表情が険しく変わる。


「その言い方だと、捕らえ損ねたということか」


「はい。後宮の北端にある古びた扉が使われたようなのです。璃華様が行方不明になった折、禁軍が後宮に立ち入る許可を賜りましたので、その扉に細工を施しておりました。もし使用された場合、痕跡が残るようにと」


「……なるほど。あの扉は既に開かぬと聞いていたが、密かに使われていたのか」


「はい。しかも、そのようなことが可能なのは、ごく限られた高い身分の者に限られます」


「そうだな。後宮の妃と通じている者の仕業と見て間違いあるまい。やはり、北の狐と呼ばれているのは……あの者か」


「青鷺の動きも気になります」


 黎煌は肘をついたまま、顎を乗せた手をわずかに傾け、鋭い眼差しで禁軍大尉を見据えた。


「――証拠は、まだ上がってこないのか」


 声に苛立ちが滲む。


「はい。巧妙に証拠を隠しているうえ、相手の身分が高すぎて、容易に手出しできぬ状況でございます。密偵を潜り込ませておりますが、屋敷に侵入するのも難しく……」


 黎煌は、深く息を吐いた。

 もし相手が平民や下級官僚であれば、状況証拠だけでも拘束は可能だった。

 だが今の相手は、帝都でも指折りの名家の者。その威光は、黎煌の判断すら慎重にさせるほど重い。


 決定的な証拠がなければ、かえって自らが不利な立場に追い込まれてしまう。

 焦燥ばかりが募っていく。

 後宮と通じ、謀を巡らせる大逆の罪。璃華もまた、その渦中に巻き込まれている可能性が高い。


 そこまでは掴めている。だが――あと一歩。

 あと一つ、動かぬ証拠さえあれば。

 禁軍大尉が一礼し、静かに執務室を後にした。

 ひとり残された黎煌は、思考の底から七年前のあの儀式を呼び起こす。


(……香炉に、呪術。まるで、あのときと同じだ。結局、あの事件では犯人は見つからなかった。湛州国は巫女の力不足で片づけたが。そんなはずがあるものか)


 璃華の母は、必死に儀式を立て直そうとしていた。

 もしあの場に彼女がいなければ、被害はもっと甚大なものになっていたはずだ。

 それを無下に断じた湛州国の判断を、黎煌は今でも愚かとしか思えなかった。

 胸元に手を添える。そこにあった、巫蠱の呪い。

 あのとき――あの場で、黎煌の懐に木人を仕込めた者は限られている。


(俺の懐に、あれを入れられたのは……)


 喉元まで名前がこみ上げてくる。だが、どうしても口にはできなかった。

 その名を告げるには、あまりにも証拠が足りない。

 状況証拠だけでは、どうにもできぬ相手だ。

 黎煌は苦々しく拳を握りしめた。

 悔しさと怒りが、胸の奥でくすぶり続けていた。


(ああ、こんなときに、小璃を撫でられたなら、どれほど心が落ち着くだろう)


 代わりに、璃華の輝くような笑顔を思い浮かべる。

 想像だけでは、小璃の柔らかな毛並みに触るほどの癒やしには及ばないが、それでも波立つ心が少しずつ静まっていくのを感じた。

 こうやって黎煌は、璃華と離れた七年間の地獄を耐え抜いたのである。


 璃華も虐げられた地獄の日々を送っていたが、黎煌も凄惨な地獄を見てきた。

 当時の黎煌は、十五歳。

 まだ背も伸びきらず、年のわりに幼い容貌をしていたが、すでに婚姻が可能な年齢ではあった。

 だからこそ、権力さえ手にすれば、すぐにでも璃華と結婚できると信じていたのだ。


 だが、現実は甘くなかった。

 そのころの黎煌には、何ひとつ決定権がなかった。

 住む場所、着る衣、行く先すら他人に決められ、付き従う者すら自ら選ぶことは叶わなかった。

 ましてや婚姻相手など、皇子の立場にある黎煌が自由に選べるはずもなかったのだ。

 それでも璃華と共に生きたいという願いが、黎煌を動かした。


 自らの手で権力を掴み取るしかない――そう覚悟を決めた彼が直面したのは、兄弟たちとの生き残りをかけた闘争だった。

 時を同じくして、皇帝である父が重い病に倒れ、次期皇帝の座を巡る争いが激しさを増していた。

 どの皇子を担ぎ、誰を排するか。権力の渦の中で、黎煌もまた大人たちの思惑に翻弄されていくこととなる。

 聡い黎煌は、やがて悟った。


 ――生き残るには、皇帝になるしかない。

 選べる道は、ただふたつ。死か、帝位か。

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