第四章 交わした約束ー⑤

「えっ⁉」


 璃華は反射的に身を乗り出し、倒れゆく彼の体を受け止めた。


「うそ……そんな……!」


 普通の人間でさえ、長く留まれば霊気にやられるという神域。

 けれど、ここまで短時間で倒れたなどという話は、聞いたことがない。


(黎煌が悪に染まった者だなんて、そんなはず……!)


 確かな証拠があるわけではない。

 けれど、璃華の本能が告げていた。この人は違う。絶対に。


「霊獣のご加護よ……お願い、黎煌を助けて……!」


 必死の叫びに、璃華の瞳には涙がにじむ。

 もし今、この人まで失ってしまったら……自分には、もう、なにも残らない。

璃華の母である明霞は死んでしまった。

 また大切な人を失うかもしれない恐怖が璃華を襲う。


「お願い……助けて……!」


 その叫びとともに、璃華の胸奥から、なにかが溢れた。

 淡く、桃色にも銀色にも見える光が、彼女の身体を中心にふわりと広がっていく。


「え……?」


 璃華の腕の中で、黎煌の眉がわずかに動いた。

 その瞬間、彼の胸元から黒い光がじわりと滲み出す。

 そっと手を差し入れると、きりで作られた小さな木人もくじんが出てきた。

 古代の呪術、巫蠱ふこ。人を内から蝕む、恐ろしい呪いの道具だった。


「なぜ、こんなものが、俺の懐に……」


 木人を取り出したとたん、黎煌の顔にふたたび血の気が戻り、彼はゆっくりと上半身を起こした。


「誰かが……黎煌を呪ったのね」


 言葉にするのも恐ろしかったが、確信があった。

 璃華の掌からは、微細な光がふわりと舞い上がっていた。

 まるで、彼女の祈りを通して、なにかの加護が黎煌に流れ込んでいるかのように。

 やがて、光に包まれた桐の木人は、璃華の掌の中で静かに灰となり、さらさらと崩れ落ちていった。


「……憑き物が落ちたように、体が軽くなったぞ」


 自分の体を確かめるように、黎煌が不思議そうに呟く。


「もう、大丈夫」


 璃華がほっとしたように微笑む。

 黎煌はその笑顔に惚けたように目を見張り、頬をほんのりと赤らめた。


「……璃華」


 優しく名前を呼びながら、黎煌はそっと璃華の頬に手を添える。

 蕩けるような眼差しのまま、ゆっくりと顔を近づけていった。

 するとそのとき、繡帳の向こうにいた狻猊が、目を輝かせながら顔を覗かせた。


「うわっ……!」


 黎煌は思わず驚き、璃華から身を引いた。

 狻猊はもう猛る様子もなく、しずしずと繡帳の内へと足を踏み入れる。


「大丈夫よ。狻猊はもう怒っていない。木人が消えて、本来の狻猊に戻ったんだわ」


 璃華はそっと狻猊に歩み寄り、手を差し伸べた。

 狻猊は鼻先を璃華の手に押しつけ、満足そうに喉を鳴らす。


「いい子ね……さあ、もう戻りなさい」


 璃華に言われた狻猊は、丸い瞳を輝かせて甘えるように小首を傾げると、ふわりと淡い光となって消えていった。


「……どこへ行ったんだ?」


「本来の場所へ」


 璃華は、遠くに視線をやりながら、静かに答えた。

 脅威が去ったと気づいた瞬間、現実が一気に押し寄せてくる。

 黎煌もまた、本来の場所──璟嘉国へと帰ってしまうのだろう。

 では、璃華は……どうなるのだろう。

 母を喪った今、この先どうやって生きていけばいいのか。


(父上のもとへ行くべきなのかしら……)


 けれど、それはあまりにも心細い選択に思えた。

 自然に囲まれ、自由に育ってきた璃華にとって、宮廷での暮らしはあまりに未知で、息苦しくさえ思える。

 けれど、まだ十歳の少女が、ひとりで生きていけるはずもなかった。

 強い不安と寂しさ、そして母を失った喪失感が波のように押し寄せる。

 それでも、この場で泣き崩れるわけにはいかない。

 感情に任せて泣いてしまえば、きっと黎煌の手を煩わせてしまう。


 もう、子どものように泣くことは許されない。

 泣くなら、誰も見ていない場所で、そっと涙を流すしかない。

 母を想うのも、心の中だけで――

 そう思ったとき、ふと脳裏に浮かんだのは、あのとき、大木の下でひとり膝を抱えていた黎煌の姿だった。


「……璃華は、これからどうするんだ?」


「わからない。でも、たぶん宮廷へ行くことになると思う。父は、湛州国の王だから」


「そうか。璃華は巫女の娘でもあり、公主だったんだな……。宮廷なら、安心だ」


 黎煌の呟きに、璃華の胸がかすかに痛んだ。

 本当は、宮廷になど行きたくない。

 けれどその本音は、胸の奥にそっとしまい込む。

 公主とはいえ、璃華の母は身分が低かった。

 宮廷に迎えられたとしても、蝶よ花よと愛されて育つことはないだろう。


(下女のように扱われるかもしれない。でも、置いてもらえるだけでもありがたい。なら……一生懸命、働こう)


 黎煌だって、母を亡くしても泣かずに耐えている。

 ならば璃華だって、きっとできるはず。


「……うん、私、頑張る」


 弱々しくはあったが、それは璃華なりの精一杯だった。小さな決意が、かすかな声に宿っていた。

 その横顔を、黎煌はしばし無言で見つめていた。

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