第三章 冷徹皇帝の本音が甘すぎますー⑥

 それは、決して気まぐれな戯れ言などではなかった。

 抱きしめられている体を通じて、黎煌の熱が、心が、真っ直ぐに伝わってくる。

 胸がいっぱいになり、息が詰まるようだった。


 嬉しくて、泣きたいほど感動して――けれど、それだけではない。

 こんな姿では、想いに応えることもできない。それがもどかしくて、切なかった。

 言葉を吐き終えた黎煌のまぶたは、静かに閉じられていた。

 そして間もなく、頬を伝った一筋の涙が枕を濡らし、やがて、規則正しい寝息が部屋に落ちた。


(……私、必ず人間に戻ります。だから、今しばらく待っていてください)


 璃華は、静かに、けれど確かな意志で決意を固めた。黎煌のためにも、阿李のためにも、そして自分自身のためにも――必ず人の姿を取り戻す。

 そのためにできることがあるのなら、たとえどんな危険が待ち受けていようとも、やるしかない。


(まずは、貴妃様の宮へ再び潜入しなければ。私が猫になったのは、あの場所。貴妃様の宮だった。もしかしたら、あの呪術と猫化には繋がりがあるのかもしれない。たとえ関係がなかったとしても、糸口を探す価値はある)


 すでに深く眠りに落ちている黎煌の腕の中から、するりと体を滑らせる。

 そっと寝台を降りた璃華は、音を立てぬよう忍び足で寝殿の奥へと向かった。

 見上げれば、帳の上部にわずかな開口がある。欄間の細工の隙間から、夜風が吹き込んでいた。猫の身ならではの軽さでしなやかに飛び上がり、寝台の梁や垂れ幕を伝い、天井の梁へとたどり着いた。

 爪で格子を掴み、するりと細工の間を抜けると、静かな夜の外へと姿を消した。



「おはよう、小璃」


 黎煌は目を覚ますと、自分の顔のすぐそばで丸くなっている小璃の小さな額に、そっと口づけを落とした。


(ひゃあっ!)


 璃華は思わず心の中で叫ぶ。相手は猫の姿が璃華であると気付いてはいない。黎煌の想いを知ってしまった今では、その仕草ひとつにも妙に意識してしまう。


(黎煌様、朝から甘すぎます……。でも、黎煌様が目を覚ます前に戻ってこられて良かった)


 昨夜は後宮内を探索し、貴妃の宮にも忍び込んでみたものの、結局これといった収穫は得られなかった。

 けれど、もし黎煌が目覚めた時に小璃の姿がなかったら、きっと心配するに違いない。そう思い、夜明け前には急いで戻ってきたのだ。


 今はまだ手がかりが掴めなくても、一度や二度で諦めるわけにはいかない。璃華は、小さく決意を新たにした。地道に、確実に、真実へと近づくために。

 いつものように黎煌に抱きかかえられ、寝室を出た小璃は、回廊に差しかかると、するりとその腕の中から飛び降りた。


「どうした、小璃。どこへ行くつもりだ?」


 黎煌が心配そうに問いかける。


「ニャー」


 璃華は黎煌を見上げ、何かを訴えるように鳴いた。日中のうちに貴妃の宮へ侵入し、女官たちの会話を盗み聞きしたい。そのためには、黎煌の側にいては動きがとれない。


「……行きたい場所があるんだな。まあ、俺のそばにいても、つまらぬ会議の話を聞かされるだけだしな。たまには気ままに歩きたいか」


「ニャー」


 そう、と言わんばかりに力強く返事をする。

 黎煌はほんの少し残念そうに目を細めたが、すぐに諦めたように微笑んだ。


「わかった。行っていいぞ。ただし、必ず戻ってこい」


「ニャ!」


 璃華は力強く鳴き、黎煌はその様子に笑みを深めた。


「……本当に不思議な猫だな。まるで人の言葉がわかっているようだ」


 そう呟いた黎煌は、名残惜しげに璃華の頭をひと撫でし、そのまま執務へと向かっていった。

 黎煌からの許しも得たことで、璃華は意気揚々と後宮へ向かった。

 貴妃の宮では、見つからぬよう細心の注意を払いながら、貴妃と女官たちの会話に耳をそばだてる。そして黎煌に心配をかけぬよう、合間には宮廷へ戻り、黎煌の膝の上や座布団の上で短い過眠を取る。夜も抜け出しているため、満足な睡眠は取れていないが、気力は不思議と尽きなかった。


 阿李の様子も、時折そっと覗きに行く。璃華の行方を案じているのは変わらないが、土を素手で掘るような奇行はなくなり、ほんの少しだけ元気を取り戻しているようだった。

 黎煌が真摯に璃華の無事を願い、行動してくれていると知ったからだろう。

 そうして、猫の姿で宮廷と後宮を行き来するようになって数日が過ぎたころ――

 璃華は、徐々に何か不穏な動きが、地中の根のようにじわじわと広がっているのを感じ取るようになる。


 最初は、何のことを話しているのか皆目見当がつかなかった。

 ある日、宮廷の廊下の陰で、こそこそと密談している官吏たちを見つけた璃華は、そっとその後をつけた。

 ひとけのない渡り廊下の影、彼らは周囲に気を配りながら、誰にも聞き取れないような奇妙な言葉で言葉を交わしていた。


「北の狐が、また餌をばらまいているらしい」


「ふむ。青鷺あおさぎの羽を整えるには、そろそろ風を呼ばねばなるまい」


(……北の狐? 青鷺?)


 何を意味しているのか、璃華にはまるで見当もつかない。ただ、そこに漂う空気は、確かに尋常ではなかった。

 璃華はそうしたやり取りの場面を何度も目にするようになった。

 さらに貴妃の宮でも、女官たちが同じような口調で、誰に聞かれるともなく小声で言葉を交わしていたのだ。


「今宵、北の狐が白梅を見に来るんですって」


「まぁ……それじゃあ、青鷺もそろそろ巣立つ準備ね」


 その会話を耳にした瞬間、璃華の胸がざわめいた。

 北の狐、青鷺――。宮廷の官吏たちの密談と、貴妃の女官たちの言葉が一致した。偶然とは思えない。胸騒ぎが確信へと変わっていく。


(これは……ただのやり取りじゃない。もしかしたら、国家を揺るがすような陰謀なのかもしれない)


 貴妃と、官吏たち。後宮と外廷が裏で繋がっている。

 呪術は「不動の罪」――すなわち、国家転覆を狙うのと同等の重罪。

 その罪に貴妃が手を染めた理由、それが「国を乗っ取るため」だとすれば、すべての辻褄が合う。


 ぞくりと背筋を冷たいものが走った。

 もしこの陰謀の矛先が黎煌に向けられているのだとしたら……


(陛下の命が、狙われているかもしれない)


 璃華は爪先に力を込めた。胸の奥で、かすかに怒りと焦燥が燃え始める。

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