第一章 人質の花嫁、後宮に入るー④
芙蓉殿へ戻った璃華は、椅子に腰を下ろし、肩を落とした。
その背中を、阿李が心配そうに見つめている。
「ど……どうして……わ、私って……い、いっつも……」
言葉が震え、胸の奥から熱いものが込み上げる。
悔しくて、情けなくて──本当は泣いてしまいたかった。
でも、ここで泣けば、阿李を余計に心配させてしまう。
だから、堪えた。唇をきゅっと噛みしめて。
「大丈夫ですよ、娘々。……私がいますから」
その言葉に、胸がぎゅっとなった。
優しさがあまりにも温かくて、かえって涙が出そうになる。
(ああ……こんな私なのに、阿李は、そばにいてくれるんだ)
璃華は、自分が嫌いだった。
うまく話せないことも、気が小さいことも、すぐ不安になる弱い心も。
全部、全部、嫌だった。
昔はこんなじゃなかったのに。
黎煌が変わってしまったように、璃華も変わったのだ。
「き……きっと、あれが……最後に見る……陛下の、お姿……ね」
ぽつりと漏れた璃華の声は、あまりにも弱々しかった。
思い出すだけで、胸が締めつけられる。
刺すような眼差し。冷たい声。
けれど、あれが最後になるのなら。
(こ、怖がってないで……もっと、ちゃんと、見ておけばよかった……)
勇気を出して、せめて顔をしっかり見ておけばよかった。
あんなにも会いたかった人だったのに。
あんなにも、心を焦がしてきた人だったのに。
「娘々……」
阿李の呼びかけに、璃華はそっと首を振った。
「も……もう、娘々って……呼ばないで……よ……余計に、つらくなる、から」
もう、終わったのだ。
これでよかったのだと思い込もうとした。
吃音の妃だなんて知られるくらいなら。
挨拶もできない、不甲斐ない妃と思われていた方が、まだましだ。
(……どうせ嫌われるなら、知られずに嫌われた方が楽ですむから)
そのときだった。
朱塗りの扉の向こう、ふいに、布靴を擦る微かな足音が響いた。
間もなく、外から澄んだ声が届く。
「──徳妃に申し上げます」
阿李がすぐに立ち上がり、戸を開ける。
月明かりを背に、白絹の衣を纏った宦官がひとり。
手には、玉牌がしっかりと握られていた。
「今宵──陛下が、こちらへお渡りになります。ご準備のほど、よろしくお願いいたします」
低く静かな声でそう告げると、宦官は深々と一礼し、音もなく去っていった。
朱の扉が再び閉じられる。
布靴の足音が、遠ざかっていく。
そして、あたりにはまた、張りつめたような静寂が戻っていた。
「……娘々……っ」
阿李は、口元にそっと手を添えながら、瞳を潤ませていた。
感極まったように頬が紅潮し、感動の涙がきらりと光る。
けれど、璃華はまるで夢でも見ているかのように、呆然としていた。
(……陛下が、来る? この私のもとへ?)
現実感が、どうしても追いつかない。
それでも時間は容赦なく進んでいき、阿李に背中を押されるまま、璃華は怒涛の夜渡り支度に巻き込まれていった。
花を浮かべた湯に、胸の高鳴りを抑えきれぬまま身を沈める。
湯から上がると、阿李がたっぷりと香油を手に取り、濡羽色の髪をゆっくりと梳いてくれた。
艶やかにしっとりと光を宿した黒髪と、薄化粧を施した顔が、鏡台の中に静かに映る。
「ふふ、娘々のお髪、本当に綺麗です……」
櫛をすべらせながら、阿李は何度も目元をぬぐっていた。
璃華の名誉を、自分のことのように喜んでくれているのが伝わってくる。
──けれど。
胸に押し寄せてくるのは、喜びだけではなかった。
嬉しい。
もう二度と会えないと思っていた人に、こうして会えるのだから。
拒まれなかった。見捨てられていなかった。
その事実は、確かに璃華の心を温めてくれた。
でも、同時に──
(こ、怖い……)
このままでは、知られてしまう。自分の本当の姿を。
吃音に悩まされ、まともに言葉も紡げない、このみじめな自分を。
「ど……どうしましょう。わ、私の……こ、この話し方を……知ってしまったら……」
(気持ち悪いって、思われるかもしれない)
その言葉が、頭をよぎった瞬間。
心の奥にしまい込んできた記憶が、ずるりと引きずり出される。
『気持ち悪い、呪われた娘が!』
かつて義母に浴びせられ続けた、あまりにも鋭い言葉。
璃華が話すたびに、彼女は眉をしかめ、忌々しげに顔を背けた。
それは、義母だけではない。
女官たちも、父ですらも、どこか璃華の声に眉をひそめた。
心配しているふりをして、目に宿るのは、哀れみと拒絶。
「大丈夫です、娘々」
阿李は、やさしく微笑んで璃華の手を握った。
「陛下は、なにもお話にならなくても、ちゃんと娘々のもとへ来てくださいました。もしかしたら、慎ましい妃だと……好感を持ってくださったのかもしれません。だから、なにも話さなければいいのです」
「そ……そうね。そ、それが……い、いちばん……いい、わね」
吃音だと気づかれさえしなければ、きっと嫌われずに済む。
拒まれるよりは、知られずに黙っていた方がいい。
胸の奥で、激しく鳴る鼓動。
璃華はそっと、唇を引き結んでうなずいた。
(そう、黙っていればいい。黙って、微笑んでいれば……)
そのとき。
灯籠の灯りが、風に揺れてかすかに揺らめいた。
淡く滲む橙色の光が、薄闇の中に長く細い影を落とす。
ふいに、遠くから足音が近づいてきた。
玉の飾りがわずかに触れ合い、布靴が敷石を擦る。
その微かな音さえ、やがて息を呑むような静けさを孕んでいく。
「──陛下のお渡りでございます」
扉の外で宦官が恭しく声を放つ。
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