第4話 頭の黒い鼠
安部家からほど遠からぬ家屋の塀の陰に、灰色の姿が蹲っていた。
ここが空き家であることを、田原は事前の調査で確認していた。彼の盗みのスタイルには、このような拠点が必要だった。仕事の後、衣服を身につけるための、隔離されたスペース。獲物を手に入れたところで、全裸ではそう遠くまで行かれない。窃盗罪の前に
しかし、気が急くあまり、随分と早く隠れ家に来てしまったのは失敗だった。汗を吸って、体にまとわりつく衣服を脱ぎ捨てたいという衝動を抑えるのに苦労する。田原は額の汗を拭って、空に目をやった。
秋晴れの空は、スクリーンに描いたように現実味のない青をしている。日没にはまだ時間があるが、東の空には、昼間の月が
それを見た瞬間、田原の気持ちは決まった。
もう、いまここで変容してしまえ。
そう決めると、身体の奥から、うずうずと衝動が込み上げてくる。
こうなると、田原自身でも止められない。彼は深呼吸をして、これから身に起こる変容に向けて覚悟を決めた。
心拍が、次第と早まり、轟々と鳴る血流に周囲の音が遠くなる。高まった血圧に、脳が腫れたようになり、意識がぼおっとしてくる。毛細血管が破れ、鼻腔からひとすじの血が流れた。
そして、骨が軋むミシミシという音が始まった。
普段は固く結びついた骨と骨がたがいのその手を離し、体内でバラバラに遊離する。パキパキ、ポキポキ、コキコキと全身の骨と軟骨の奏でるシンフォニーに包まれているうちに、視界から色が抜けてゆく。
肌の下を虫が這い回るようなムズムズとした感触が続き、縮んだ胸郭の中で肺が絞られる。
尾骶骨がキリキリと伸びてスラックスの尻が窮屈になってきた。
世界が急に大きく、広くなり、身につけていた衣服が、突然ダブダブと大きくなる。
田原の身体は縮んでいた。
もとより小柄な身体つきが、子供のようになり、幼児のようになり、それと同時に鼻先が尖り、耳は丸く、黒目が広がって白目が消えた。
毛穴から強い毛がニョキニョキと生え揃い、ピンと張った髭がそれに続いた。
やがて、灰色の衣装がヘナヘナとくずおれて出来た布の山から、一匹のドブネズミが姿を現した。
リカントロピー。
文字通りには、人狼化を指す、獣化の呪い。あるいは、変身の魔法。持って生まれたこの力により、田原はドブネズミに変容することができた。田原が職業的窃盗者となったのも、ある意味では当然だった。
現代社会において、もっとも稼げるライカンスロープは
まるで抜け殻のようになった衣服の上で、一匹のドブネズミと化した田原は、前足でくしくしと器用に鼻を擦ると、彼を苦境から救い出すはずの『妖蛆の秘密』を求めて移動を開始した。
彼に複雑な計画はなかった。
密かに建物に侵入し、中を探る。目当ての品を見つければ、夜を待ってことを起こす。
シンプルなプラン。今まで、たいていそれで上手く行った。
だいじょうぶ。今回もそうなるはずだ。
道を渡り、目当ての民家の塀によじ登ると、田原はその庭に飛び降りた。
この時まだ、彼はそこが凶暴な灰色猫の領分であることに気づいていなかった。
ピンクの舌がぺろり、と舌なめずりをした。
長く、立派な犬歯がちろりと覗く。ホイエルは、タオルケットや、脱ぎ捨てられたTシャツが散乱するベッドの上にその身体を長く伸ばし、その日何度目かの午睡を楽しんでいた。口内に、アイスクリームの美味を
四角く黒い、大きな物体だ。
それはホイエルの主人、ソーニャがことあるごとに紐解く魔導書『妖蛆の秘密』だ。もしミスカトニック大学の図書館員が、このような貴重なインキュナブラが猫とベッドを分け合っているのを見たら卒倒ものだろう。
ホイエルは大きくあくびをすると、ちょっと身体をずらして再度、眠りに戻ろうとしたが……。
灰色猫の大きな耳が、ぴくり、と動いた。次の瞬間、ペリドットの瞳がかっと見開いた。すっくと身体を起こす。もふもふとした毛並みの下で、たくましい筋肉に緊張が走った。
猫族の一員である彼は、並の人間よりも遥かに鋭敏な五感の他に、霊的感覚を持っている。
なにかよからぬものが入ってきた。
テリトリーを侵す侵入者の存在が、ピンピンと張ったヒゲに感じられる。
ホイエルはベッドから飛び降りると、畳をよぎって部屋の引き戸をガリガリと爪で引っ掻いた。ゴトゴトと音を立てて戸が開くと、猫の額のぶんだけあいた隙間を抜けて廊下へと出て行った。
縁側の網戸を開けて、ホイエルはぴょん、と庭に降り立った。
むっとする草いきれの中で、灰色猫は身を低くして周囲の気配を探った。
大きな耳をパラボラアンテナのように巡らせて、不埒な侵入者の行方を突き止めようとした。
カサカサという小さな音。パタパタと、地面を走る軽い足音。
ホイエルの種族がまだ、リビアの荒野に暮らしていたころから常食としてきた獲物の気配。
灰色猫の血管で興奮が沸き立った。
それでも、狩人の心臓はあくまでも冷静に。
放たれる直前の矢のように、その身体にエネルギーを漲らせ、ホイエルは静止していた。
瞬きを忘れた瞳が、獲物の動きを捉えた。
それは一匹の大柄なドブネズミだった。
大胆にも、彼の庭をたむろしている。
ホイエルは驚くとともに、歓迎したいような気分になった。
彼が主人と共にここへ越してきて数日で、界隈のネズミにこの灰色の虐殺者の存在は知れ渡っていた。今ではこの庭に入るは愚か、接近するものも絶えて居ない。その狩りの腕前を発揮する機会に恵まれず、灰色猫は
彼の視線を感じたように、ネズミが歩みを止めた。
不安げに首をめぐらし、その視線が、草むらとは違うふわもこを捉える。
その瞬間、灰色の稲妻がうかつな
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