曼荼羅花狂想曲〜ソーニャ・H・プリンの事件簿〜

ねこたろう a.k.a.神部羊児

第1話 プロローグ 灰色の男

 田原藁人たわらわらとは灰色の男だった。

 ごま塩の頭に、灰色の帽子を載せ、小柄な肩に灰色のコートを羽織り、裾から覗くスラックスも灰色で、兄元にはダークグレイの革靴を履いている。地面に落とす影までもが心なしか灰色に見えた。

 初秋の陽気には少々厚着すぎる格好で、田原は白昼の住宅地を歩いていた。

 まるでちょっと散歩しているかのような何気なさで、ぶらぶらと歩き、時折足を止めては、庭の植木や、庭先のプランターに目をやるふりをする。

 だが時折、立てた襟の陰から覗く小さな目には、堅気かたぎの者にはありえない剣呑な光が閃いた。

 田原は職業的窃盗者だ。

 彼が得意とするのは魔術的な力を持つ物品、いわゆるアーティファクトだ。

 オカルト。魔術、そして神々が、現実的な力を持つことを田原が知ったのはもう随分と前になる。そして、それらが非常に高い市場的価値を持つことも。

 今、田原の目には、道路を挟んだ向かいに建つ、一軒の日本家屋に向けられていた。

 どうと言うことのない、日本家屋だ。やや古風というか、くたびれており、この住宅地に建つ他の無数の家屋となんら変わりはない。

 本当に、こんなところに伝説的な魔導書があるのだろうか?

 今日すでに何度目かの疑問が、田原の脳裏を過った。

 『妖蛆ようそ秘密ひみつ』。

 それは古代エジプトの神秘に切り込んだ、禁断の書。記された強力な魔術の数々と、暗黒の神々の親族うからの秘密。特に『全てを見る目』ことニャルラトホテプについての暴露は本来、ファラオの棺より十倍も強力な呪いで守られたラヴェ=ケラフの暗黒のパピルスから引き写されたものだともいう。資格なきものがうかつに触れればすぐさま破滅をもたらす、超一級の危険物。そうであるのに。あるいは、そうであるからこそ。この本を求めるものは五万といる。

 それがこんな、岡山県の、どうと言うことのない民家に存在するなどと……。

 普段なら田原自身ガセだと一蹴しただろう。だが、溺れる者は藁をも掴むの諺の通り、彼にはそれを信じなくてはならない事情があった。彼には金が必要だった。

 早急に返さねばならない借金があるのだ。

 この家に『妖蛆の秘密』がなくては困るのだ。

 コートのポケットに手を突っ込んで、安部と書かれた表札を横目で見た。ざっと流し目で、警備状況を確認する。目につくところに、監視カメラやセンサーなどはない。それは安心材料であり、不安材料でもある。セキュリティの甘さは歓迎できる一方、揺籃期印刷本インキュナブラとしての価値だけでもグーテンベルク聖書に匹敵するお宝があるにしては、あまりにも無防備だった。

 家の前を行きすぎながら、田原は考えた。

 もし、本が無かったらその時はどうすればいいんだ?

 心臓を流れる血に、氷水が混ざったかのように、ぞくぞくとした悪寒が背筋を這い上がった。喉に、胆汁のような苦い後悔の味が込み上げる。

 今にして思えば、なぜ自分はあんな言葉を信じてしまったのか。

 彼は情報提供者の砂色の瞳を思い出していた。

 あのナタリーとかいう黒髪の女の、蜜のような囁きを信じ込み、こんな辺鄙な場所までのこのこやって来てしまった。もしや謀られたのでは、という疑惑が胸のうちで膨らみ、足元の大地が崩れるような恐怖へと変わってゆく。

 田原は小さく頭を振り、弱気な考えを追い出した。

 いや、あの女はミスカトニックの関係者だと言っていた。筋は確かだ。

 そもそも俺を騙して向こうになんの得がある?

 それに、虎大人フーターレンの闇カジノで背負った莫大な負債をチャラにするには、出所の怪しい情報だろうとなんだろうと選り好みしている場合ではない。こちとら、明日にでも児島湾に浮いているかもしれない身の上なのだ……。

 田原は最後にもう一度、背後を振り返ると、コートの襟に顔を隠し、足早に家の前から立ち去った。

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