第七話
病院の廊下は、消毒液と後悔の匂いが漂っていた。無機質な空気が扇の喉の奥にまとわりつき、蛍光灯の微かなブーンという音が頭に響く。扇は壁にもたれ、腕を組んで、向かいの壁の汚れを何か深い秘密でも隠しているかのようにじっと見つめていた。凛は数歩先に立ち、廊下の突き当たりの窓から漏れる東京のネオンの光にそのシルエットが浮かんでいた。外の喧騒は、この静かな絶望の中には届かない。
「大丈夫?」
凛が低い声で尋ね、病院のざわめきにその声はほとんど飲み込まれそうだった。
扇は鼻で笑い、彼女を見なかった。
「何だその質問。俺が心配されるような奴に見えるか?」
凛が振り返り、黒髪が光を捉えて蜃気楼のように揺れた。
「強がらなくていいって。さっきから檻の中の動物みたいにウロウロしてるじゃない。」
「落ち着いてろってのか?」
扇の声は意図したより鋭く響いた。
「あの子があそこで死にそうになってんのに、俺がのんびりしてられるわけねえだろ。」
凛はひるまなかった。彼女は一歩近づき、ブーツが床で小さくカチッと音を立てた。
「また怒ってるね。自分がどうしていいか分からない時、いつもそうなる。」
「何だよ、凛は冷静なのか?棗が死にそうでも平気なのか?」
「平気なわけないよ。」
凛の声は静かだったが、どこか鋭い刃のような響きがあった。
「でも、扇、あんたが自分を壊しても何も変わらない。あの子を救う方法なんてないんだから。」
扇は目をそらし、唇を噛んだ。彼女の言葉は正しかった。吸血鬼の不死の力も、棗の病を止めることはできない。血を吸って眷属にすれば、確かに死は免れるかもしれない。だが、それは凛を殺すことになる。扇の胸の奥で、何かが締め付けられるように痛んだ。
「…分かってる。」
扇は呟き、壁に頭を軽く打ちつけた。
「分かってるけど、クソくらえだ。」
凛は小さく息を吐き、窓の外を見やった。
「あの子の強さ、見たよね。あんな小さな体で、死に抗って、笑って、街を彷徨って…。あんたが自分を責める前に、あの子の生き様をちゃんと見てあげなよ。」
扇は答えなかった。凛の言葉は彼の心に突き刺さり、過去の傷を抉るようだった。あの事件以来、扇は自分を閉ざし、感情を押し潰して生きてきた。だが、棗の存在は、その鎧にひびを入れていた。
「行くぞ。」
扇は突然言って、廊下を進み始めた。
「あいつを待たせすぎるのは嫌だ。」
凛は小さく頷き、彼の後を追った。
棗の病室は、機械のピッピッという音と、かすかな消毒液の匂いで満たされていた。ベッドの上の棗は、驚くほど小さく見えた。白いシーツに埋もれ、顔は青白く、目は半分閉じていたが、扇と凛が入ってくると、弱々しく微笑んだ。
「やっと…来た。」
棗の声はか細く、まるで風に消えそうなほどだった。
「遅いよ、扇さん。」
扇はベッドの横の椅子を引き寄せ、腰を下ろした。
「悪ぃな。凛とちょっと話してた。」
「ふーん。」
棗は目を細め、凛を見やった。
「お姉さん、扇さんと何話してたの?私の悪口?」
凛はくすっと笑い、ベッドの反対側に立った。
「まさか。棗ちゃんのこと、めっちゃ褒めてたよ。強くて、生意気で、最高のガキだって。」
「ガキじゃないもん。」
棗はむっとした顔で頬を膨らませたが、すぐに力が抜けたように笑った。
「でも、褒められるのは…悪くないかな。」
扇は彼女の小さな手をそっと握った。冷たく、壊れそうに華奢だった。
「調子はどうだ?」
棗は目を閉じ、ゆっくり息を吸った。
「んー、ダメかも。胸が…キリキリする。でも、扇さんたちが来てくれたから、ちょっと嬉しい。」
「嬉しいなんて、軽いな。」
扇は冗談めかして言ったが、声は少し震えていた。
「もっと大げさに喜べよ。吸血鬼がわざわざお見舞いに来てんだぞ。」
棗は小さく笑い、咳き込んだ。扇と凛は一瞬緊張したが、彼女はすぐに落ち着き、目を細めた。
「吸血鬼…か。やっぱり、かっこいいな。永遠に生きられるなんて、ずるいよ。」
凛がそっと彼女の髪を撫でた。
「永遠って、案外つまんないよ。棗ちゃんみたいに、毎日必死に生きてる方が、ずっとキラキラしてる。」
棗は目を丸くし、頬がわずかに赤くなった。
「お姉さん、急に優しいこと言うね。…ずるい。」
三人でしばらく他愛もない話を続けた。遊園地の思い出、棗がジェットコースターでびしょ濡れになったこと、扇の変顔写真。棗は弱々しいながらも笑い、時折目を輝かせた。扇は彼女の笑顔を見るたび、胸の奥が締め付けられる思いだった。この子は、こんなにも生きようとしているのに、なぜ、と。
「ねえ、扇さん。」
棗が突然言った。
「ちょっと…二人で話したいな。お姉さん、ごめん、ちょっとだけ。」
凛は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「いいよ。ちょっと外でコーヒーでも買ってくる。」
彼女は扇に軽く目配せし、病室を出て行った。ドアが静かに閉まる音が、部屋に重く響いた。
病室には、扇と棗だけが残された。機械の音がやけに大きく聞こえ、扇の心臓を締め付けるようだった。棗はベッドに横たわり、扇の手を握ったまま、じっと彼を見ていた。
「扇さん…ありがとう。」
棗の声は、まるで糸が切れそうなほど弱々しかった。
「あの夜、街で会って…家に連れてってくれて…楽しかったよ。」
扇は喉に何かが詰まったように感じ、言葉を絞り出した。
「…礼なんていらねえよ。お前が勝手に俺に絡んできただけだろ。」
棗はくすくすと笑ったが、すぐに咳き込み、顔を歪めた。扇は慌てて彼女の背中をさすった。
「おい、無理すんな。」
「大丈夫…だよ。」
棗は息を整え、扇を見上げた。
「ねえ、扇さん。死ぬの…やっぱり怖いよ。でも、扇さんやお姉さんと一緒にいると、ちょっとだけ…怖くなくなる。」
扇は目をそらし、唇を噛んだ。彼女の言葉は、まるで刃のように彼の心を切り裂いた。
「…そんなこと言うなよ。俺なんかに何ができるってんだ。」
「できるよ。」
棗は力を込めて言った。
「扇さんは…私のこと、ちゃんと見ててくれた。遊園地も、楽しかった。生きてるって、こんなに楽しいんだって、思えたんだから。」
扇の胸が熱くなった。彼女の小さな手は、冷たいのに、なぜか焼けるように熱かった。
「お前…ほんと、生意気なガキだな。」
「ふふ、高学年だもん。」
棗はいたずらっぽく笑い、目を閉じた。
「ねえ、扇さん。約束して。」
「何だよ?」
「また…会おうね。どこかで、いつか。生まれ変わったら…また、遊園地行こう。」
扇の視界が滲んだ。吸血鬼のくせに、こんな感情に振り回されるなんて、情けなかった。
「…ああ、約束する。絶対また会おう。必ず待ってるから。」
棗は満足そうに微笑み、目を閉じた。彼女の手はまだ扇の手を握っていたが、力が少しずつ抜けていくようだった。扇は彼女の手を強く握り返し、涙を堪えた。
凛が病室に戻ってきた時、扇はまだ棗の手を握っていた。彼女は静かにドアを閉め、扇の肩にそっと手を置いた。
「…大丈夫?」
扇は小さく頷き、棗の手をそっとシーツの上に戻した。
「ああ。…約束したよ。また会うって。」
凛は黙って扇の隣に立ち、窓の外を見やった。ネオンの光が、彼女の顔を柔らかく照らしていた。
「それでいいよ。棗ちゃん、きっと待ってる。」
二人はしばらく黙って立ち尽くした。
「これで良かったの?」
葬式の日、凛は俺に訊いた。
「勿論。最後はきっと幸せだったはずさ」
「だけど」
「生きているからには、どんな者も死から逃れることはできないんだよ」
「……」
「俺も最近知ったんだけど、吸血鬼も歳を取るんだよ。通常の人間より極端に寿命が長いだけで、徐々に死に近づいてる。俺も最初吸血鬼化した時は今よりも少し身体能力が高かった…」
実のところ、このことを気付けたのは棗や凛のおかげなのだ。そう、二人が俺にもう一度生きることを教えてくれたからこそ、俺は自分が死ねることを知れた。そして、だからこそ、俺は前を向き続けられる。
「病室でした最後の約束を憶えている?」
式場の外へ出ると、白い入道雲が山麓から顔を出している。赤い彼岸花が、道端のアスファルトから咲いているのが目に入った。
「憶えてるさ」
彼女との最後の約束。遊園地に行った数日後、彼女は静かに旅立った。生まれ変わったら、また会おう、と彼女は最後に、そう言った。俺は確かめるようにもう一度、その返事を小さく口に出す。
「必ず待ってる」
誰かの立ち去るように、彼岸花が揺れた。
おわり
空物語 雲居晝馬 @314159265359
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