ラプの旅行記
ラプ
第1話 書架の国
得体の知れない衝動が、私の心をがらんどうの部屋から追い立てていた。焦燥と言おうか、あるいは単なる倦怠か。ともかく、じっとしていられなくなったのだ。この世界は、無数の光の点でできた、巨大で空虚な天球だ。そこに留まることは、緩やかな窒息を意味する。だから私は旅に出る。この身一つを記録媒体として、移ろいゆく景色と人間を、インクと画素に変えるために。
ヘッドフォンを耳に当て、外界のノイズを遮断する。流れ込むのは、私の世界を構築するためだけに選ばれた音の粒子。青いショートボブの髪が、トラベラージャケットの襟足をくすぐる。さあ、行こう。意味などない。旅という行為そのものが、今の私にとって唯一の呼吸なのだから。
*
巨大なガラスのドームが、空から降り注ぐ情報の光を乱反射させている。ここが、あらゆる旅の起点、ハブ駅。大都市のターミナル、という表現では生ぬるい。ここは都市そのものであり、絶えず生成と消滅を繰り返す世界の縮図だ。
天井近くに設置された巨大な電光掲示板には、膨大な数のキーワード――つまりは駅名――が滝のように流れ落ちていく。その速度は、人々の興味の移ろいの速さそのものだ。昨日まで最上段で輝いていた言葉が、今日はもう濁流の底に沈んでいる。無常。実に無常だ。私はカメラを構え、その刹那の光景を数枚切り取った。
(ふん、流行なんてものは、しょせん情報の残像にすぎない。人々は光に群がる虫のように、ただ新しい刺激に吸寄せられているだけ。思考停止の集団行動、滑稽だわ)
「何かお困りですか?」
思考の海に沈んでいた私に、背後から声がかかった。振り返ると、青と白の清潔な制服に身を包んだ駅員が、絵に描いたような笑顔で立っている。フレンドリー。実に結構。だが、その目は笑っていない。獲物を品定めするような、鋭い光が奥に宿っている。
「いいえ、大丈夫です。次の目的地を考えていただけですので」
私はにっこりと、人懐こい少女の仮面を貼り付けて答える。駅員は「ごゆっくりどうぞ」と形ばかりの会釈をして、滑るように去っていった。彼の背中を見送りながら、ノートにペンを走らせる。
『ハブ駅員:フレンドリーだが目は鋭い。利用者の行動データを収集し、最適化されたサービスという名の監視網を構築する末端。彼らの笑顔は、個人情報提供への同意ボタンのようなものだ』
さて、と。私は掲示板を見上げ、指先で空中にキーワードを描いた。
「キーワード『書架の国』」
私の声に反応し、足元のタイルが一瞬だけ青く発光する。進むべきプラットホームへの道筋が、光のラインとなって床に浮かび上がった。便利で結構。だが、この親切が、私の行動履歴をどこかのサーバーに送信していることを私は知っている。まあ、いい。情報を提供した見返りに、私は未知の世界への切符を手に入れるのだから。等価交換だ。
プラットホームに滑り込んできた列車は、白地に青いラインが入った、近未来的なデザインだった。光沢のあるボディ、継ぎ目のない大きな窓。まるで、磨き上げられたばかりの万年筆のようだ。ドアが静かに開き、私は躊躇なく乗り込んだ。
車内は、駅の喧騒が嘘のように静かだった。乗客はまばらで、それぞれが窓の外を流れる光の帯を眺めている。高速で移動しているはずなのに、揺れはほとんど感じない。この列車は、物理法則すら捻じ曲げて目的地へと突き進んでいるようだ。
私は窓際の席に座り、スケッチブックを開いた。車窓の風景は、抽象画のようだ。赤、青、緑の光が混ざり合い、渦を巻き、たまに風景となって消えていく。この混沌こそが、この世界の素顔なのだろう。
『快適だが、乗客同士の交流は皆無。人々は窓の外に広がる光の世界を消費するだけで、自らがその世界の一部であることには無自覚。孤独な観客を乗せた、静かな箱』
SNSを開き、撮影したハブ駅の写真を一枚投稿する。
「新しい旅の始まり! まずは『書架の国』っていう国に行ってみます。どんな物語に出会えるかな? ドキドキ! #ラプの旅行記 」
数秒もしないうちに、いくつもの「いいね」がつく。私の旅は、こうして他人の暇つぶしという燃料を得て、前へと進むのだ。
*
「次は書架の国、書架の国です」
柔らかなアナウンスが流れ、列車はゆっくりと速度を落とした。駅のホームは、ハブ駅とは対照的に、クリーム色と木目調で統一された落ち着いた雰囲気だった。空気が違う。鼻腔をくすぐるのは、紙と、インクと、そして微かなコーヒーの香り。
駅を出ると、私は思わず息をのんだ。
目の前に広がっていたのは、巨大な書架がビルディングのように立ち並ぶ街並みだった。空に向かって伸びる本の背表紙が、摩天楼を形成している。道の両脇には、出版社と思しき重厚な建物や、ガラス張りの図書館が並び、人々は静かに行き交っている。聞こえてくるのは、風がページをめくる音と、どこからか響いてくるリズミカルなタイピングの音だけだ。
(なるほど、小説・創作コンテンツの国、か。徹底しているわね。この静けさは、心地よい強迫観念だ。書け、読め、と街全体が囁いているようだわ)
街の中心にある広場には、巨大な電子掲示板が設置され、新作の情報や人気ランキングがひっきりなしに更新されている。作家、編集者、読者、書評家。様々な肩書を持つ住人たちが、掲示板の前で足を止め、熱心に議論を交わしていた。彼らの会話の一つ一つが、この街の評価をリアルタイムで変動させていくのだろう。
私はしばらくその光景を観察し、ノートに書き留めた。
『書架の国:文化は創作・読書・批評が中心。住人は常に評価の目に晒され、同時に評価者でもある。相互監視によって成り立つ、静かで息苦しいユートピア』
少し歩き疲れた私は、「稿読夢」と看板のかかったカフェに足を踏み入れた。店内は、外観と同じく木目調で統一され、静かなクラシック音楽が流れている。客たちは皆、手元に本や端末を広げ、黙々と自分の世界に没頭していた。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
物腰の柔らかい店員に案内され、窓際の席に腰を下ろす。メニューはコーヒーと紅茶、そして数種類の軽食のみ。創作の邪魔にならないように、という配慮だろう。ブレンドコーヒーとサンドイッチを注文し、運ばれてくるまでの間、人間観察を再開する。
斜め前の席では、若い女性がノートパソコンに向かって一心不乱にキーを叩いている。時折、苦悶の表情で頭をかきむしり、また打ち込み始める。新人作家だろうか。その隣では、眼鏡をかけた男性が、分厚いハードカバーの本に赤ペンでびっしりと書き込みをしている。編集者か、あるいは熱心な読者か。
(誰もが物語に取り憑かれている。ここは巨大な繭の中のようだ。皆、自分の糸を紡ぐか、他人の紡いだ糸をたぐるか、そのどちらかに夢中になっている。居心地はいい。だが、この安定は、少し退屈でもある)
運ばれてきたコーヒーは、酸味と苦味のバランスが取れた、丁寧な味がした。サンドイッチも悪くない。私はゆっくりと食事を楽しみながら、店員に話しかけてみた。
「この街は、とても静かで素敵ですね」
「ありがとうございます。皆さん、物語を愛する方ばかりですから」
店員はにこやかに答える。創作好きで丁寧。テンプレート通りの完璧な応対だ。私は当たり障りのない会話をいくつか交わし、礼を言って店を出た。SNSに投稿する。
「『稿読夢』さんでひと休み。美味しいコーヒーと静かな時間。創作意欲が湧いてきちゃいます! #書架の国 #創作カフェ」
もちろん、本心はノートの中にだけ記しておく。
*
表通りの整然とした美しさには、すぐに飽きが来た。綺麗に舗装された道、手入れの行き届いた書架のビル、礼儀正しい住人たち。すべてが完璧にデザインされすぎていて、息が詰まる。私の好奇心は、常に予定調和の外側へと向かう。
ふと、巨大な図書館の脇に、人が一人やっと通れるくらいの細い路地があるのに気がついた。公式の電子マップには表示されていない道だ。私の直感が、そこへ行けと囁いている。こういう時の直感は、大抵正しい。
路地裏に一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。クリーム色と木目調の世界は消え失せ、視界はグレーと黒のモノトーンに支配される。壁にはスプレーで描かれた落書きや、意味不明なステッカーが無数に貼られていた。鼻をつくのは、古い紙のカビ臭い匂いと、弱々しいコーヒーの香り。どこからか、ひそひそとした囁き声と、乾いた紙をめくる音が聞こえてくる。
(……こっちの方が、よほど空気が濃い。表通りが上澄みだとしたら、ここは澱だ。だが、面白いものはいつだって、澱の中に沈んでいる)
道は迷路のように入り組んでいた。同じような角を何度も曲がり、自分がどこにいるのか分からなくなる。だが、不安よりも興奮が勝っていた。時折、フードを目深にかぶった人物や、マスクで顔を隠した人々とすれ違う。彼らは私を一瞥すると、すぐに目を逸らし、闇に溶けるように消えていった。
やがて、一軒の古書店の前にたどり着いた。看板はなく、薄汚れたガラス窓の向こうに、うず高く積まれた本のシルエットが見えるだけだ。ドアを押すと、軋んだ音とともに、さらに濃密なカビの匂いが私を迎えた。
店内には、公式の出版社では決して扱われないであろう同人誌や、過激な実験的作品が所狭しと並べられていた。私はその背表紙を一つ一つ指でなぞりながら、この国のもう一つの顔を垣間見る。検閲を逃れ、評価経済の外側で、ただ純粋な表現欲だけで生み出された言葉の塊。その多くは稚拙で、独りよがりだったが、中にはっとするような輝きを放つものもあった。
一冊の、手製本とおぼしき詩集を手に取る。作者名は記されていない。ただ、ざらついた紙に、鋭利な刃物で刻んだような言葉が並んでいた。その熱量に、私は少しだけ眩暈を覚えた。
古書店を出て、さらに路地裏の奥深くへと進むと、地下へと続く階段があった。壁に、「bar Constraint」と殴り書きされた小さなプレートが掛かっている。迷わず、その階段を下りていった。
バーは、想像通り暗く、狭かった。壁には古びた創作論のポスターや、作者不明のイラストがびっしりと貼られている。カウンターに座ると、無口なマスターが、安価だが妙に味わい深いコーヒーを淹れてくれた。
客は私以外に三人。一人はカウンターの隅で黙々と何かを書き殴っており、残りの二人は、テーブル席で激しい口論を繰り広げていた。
「……だから、物語の整合性なんてものは、読者を縛るための幻想に過ぎないと言っているんだ!」
「馬鹿を言え! 破綻した世界に、誰が没入できるか! 読者への裏切りだ!」
匿名作家同士の論争だろうか。彼らの言葉は、表通りの洗練された批評とは全く違う、剥き出しの熱を帯びていた。私はそのやり取りをBGMに、ノートに今日の出来事を書き込んでいく。
表と裏。光と影。この国は、美しい書架の街並みの下に、こんなにも混沌としたエネルギーを隠し持っていた。どちらが本当の姿というわけではない。おそらく、両方があって初めて、この「書架の国」という国は成り立っているのだろう。
コーヒーを飲み干し、カウンターに小銭を置いた。そろそろ、夜の寝床を探さねばならない。
*
バーを出て、再び路地裏の湿った空気を吸い込む。時刻はとうに夜の帳が下りていた。表通りに戻れば、「ホテル・ノンブル」だの「ペン先の夢」だの、気取った名前の清潔な宿泊施設がいくらでもいるだろう。だが、一度この澱の味を知ってしまった後では、上澄みの無味無臭さが我慢ならない。
(泊まるなら、こっちだわ。プライバシーと引き換えに、本物の空気が吸える場所がいい)
私はさらに奥へと進んだ。すると、点滅する裸電球の下に、古びた木の扉がひっそりと佇んでいるのを見つけた。看板はない。ただ、扉にインク瓶のマークが小さく刻印されているだけだ。ここだろう。私は扉を押し開けた。
カラン、と乾いたベルの音が鳴る。中は薄暗く、カウンターの奥で、老人が一人、黙々と分厚い本を読んでいた。私が来たことに気づいているはずなのに、顔を上げようともしない。
「一泊、できますか?」
老人はゆっくりと顔を上げた。深く刻まれた皺、すべてを見透かすような鋭い眼光。無言で顎をしゃくり、壁に掛かった黒板を指さした。そこには「一泊 素泊まり 電源・高速回線使用料込」とだけ書かれている。値段は、表通りのホテルの十分の一ほどだろう。
「ここにします」
私が言うと、老人は無言で鍵を一つ、カウンターに滑らせた。部屋番号すら書かれていない、ただの古びた真鍮の鍵だ。
「部屋に鍵はかかりません。荷物は自己責任で」
初めて発した声は、紙やすりのように嗄れていた。
(信頼関係だけで成り立っている、か。面白い。盗まれるような高価なものなど、この身一つと記録データくらいなものだわ)
私は鍵を受け取り、軋む階段を二階へ上がった。案内された部屋は、ベッドと小さな机があるだけの、独房のような空間だった。しかし、壁際には無数の電源タップがあり、部屋の隅からは強力なWi-Fiの電波が発せられているのが分かった。ここが、この国の創作者たちのための、もう一つの聖域なのだ。
ベッドに荷物を放り出し、机に向かう。カメラからデータを取り込み、スケッチブックとノートを見返す。今日の記録を、一つのファイルにまとめていく。
『書架の国、一日目。表通りは、評価という名の太陽に照らされた、美しいが不毛な砂漠。対して裏通りは、名もなき表現欲が蠢く、豊かで危険な沼地。住人は皆、言葉の亡霊に取り憑かれている。どちらも魅力的だが、私は沼地の泥の匂いの方が性に合う』
SNSには、当たり障りのない写真を数枚アップする。
「今夜は『サイレント・インク』っていう、とっても趣のあるお宿に泊まります。静かで落ち着くなあ。明日はどんな発見があるかな? おやすみなさい! #書架の国 #ラプの旅行記 #旅の宿」
投稿を終え、ベッドに倒れ込む。壁の向こうから、夜通し続くであろうタイピングの音が、子守唄のように聞こえてきた。
*
翌朝、私は鳥のさえずりではなく、誰かの議論の声で目を覚ました。階下の共有スペースだろうか。簡素なパンとコーヒーだけの朝食をとりながら、フードを被った宿泊客たちの会話に耳を澄ませる。彼らは昨夜の論争の続きをしているようだった。熱っぽく、しかしどこまでも真摯に、物語の本質について語り合っている。
私は彼らに会釈だけして、宿を出た。清々しい朝だった。
もう一度、表通りを歩いてみる。昨日と同じく、街は静かで、清潔で、美しかった。だが、今の私には、その美しさが張りぼてのように見えた。本当の心臓は、あの薄暗い路地裏で、今も激しく脈打っている。
私は駅へと向かいながら、この一泊二日の旅を反芻する。光と影、秩序と混沌。この国は、その二つの顔を持つことで、かろうじてバランスを保っている。そして、その危ういバランスの上に、無数の物語が生まれては消えていくのだ。
ハブ駅のホームに立ち、次のキーワードを考える。この旅は、まだ終わらない。終わらせてはいけない。私の知らない世界が、まだ無数に広がっているのだから。
ヘッドフォンから流れ始めたのは、新しい旅の始まりを告げる、軽快なリズムだった。私は微笑み、光の奔流と化して走り去る列車に、静かに乗り込んだ。
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