③きみに捧ぐ(いちご/記憶/飛行機)

 きっかけは、大したことじゃなかった。たぶん、朝のお味噌汁にポットのお湯を足されたこととか、ペットボトルを何本もシンクに置きっぱなしにされたこととか(それもラベルも付いたまま!)、そういうことが積もりに積もって爆発してしまった。

 若い頃なら子供を連れて実家に帰ります! なんて言っていたかもしれないけれど、還暦もすぎているのにこんな小さなことで里帰りなんて、親戚中の笑いものになってしまう。それも、きっと死ぬかボケるかするまでずっと。少し悩んでから、私はひとりで旅行へ出ることにした。


 旅行自体が久しぶり、一人旅なんて生まれて初めて。何をやるのも新鮮で楽しくて。美味しいものを食べて歩いて、ビジネスホテルなんかに泊まっちゃって。年甲斐もなく遊んでいたら、喧嘩相手の夫から連絡があった。ごめんでもなければ帰ってこいでもない。ただいちごの写真が一枚だけ。呆れるよりも早く、娘から「お父さん心配してる。そろそろ帰ってやって」なんて追い討ちが来る。

 夫の思い通りになるのはちょっと嫌だけど、さすがに冷蔵庫の中の野菜たちも心配だったし。その日のうちに帰りの飛行機を予約した。


「あら、じゃあ娘さんの出産に立ち会うために?」


「そうなのよ。昔は都内に出るなんて大旅だったけれど、今は飛行機で一時間ちょっとだもの、すごいわよね」


 飛行機で隣になったのは、品のある素敵な方だった。はっきりとは聞いていないけれど、おそらく同年代で、彼女も娘がいるらしい。夫婦喧嘩のきっかけとなった些細な愚痴を話したら共感してくれた。どこの家も同じなのだと思うと、安心したような、味方が出来たような、不思議な気持ちになる。

 話の流れの中で、彼女にいちごの写真を見せた。パックのまま、器にも移していない無骨ないちご。

 

「見てよこれ、こんなもので私の機嫌をとろうなんて」


 夫の行為を一緒に笑ってくれるかと思ったけれど、彼女の反応は少し違った。優しく、そうっと微笑んだ。何かを懐かしんでいるようにも見える。

 

「あら、いちご。いいじゃない。花言葉は幸福な家庭っていうのよ」


 幸福な家庭。頭の中でその言葉を繰り返すと、自然に思い浮かぶ情景があった。それに浸ってしまわないうちに笑い飛ばす。

 

「やあねえ、花言葉なんて知ってるわけないわよ」


 数十年連れ添った家族の顔が自然と思い浮かんだ。

 

「無愛想で、言葉足らずで、不器用で」


 だけど家族思いで、決して声を荒らげたりなんかしない。真面目で仕事熱心で、あたたかい人。

 

「うちのだって酷いわよ」


 彼女はそう言った笑った。彼女の旦那さんも、きっといい人なんだと思う。笑い合っているうちに、アナウンスが響く。

 

「ねえ、空港に着いたらちょっとお茶しない?」

 

「だめよ、早く帰らなきゃ。せっかくいちごが待ってるんだから」


 嗚呼、残念。せっかく気の合うひとに出会えたのに。だけどそうよね。彼女だって早く娘さんに会いたいだろうし。

 私は――家に帰ったら何て言ってやろうかしら。お土産を渡すのは、あの人が謝ってから。あと練乳を買って帰らないと。

 行きよりも、荷物は重い。だけど、足取りは帰りの方が軽い。

 

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