第2話 冬野トワの命令

 それは、最初の呼び出しからちょうど三日後の放課後だった。

 窓の外は春の曇り空で、日差しはなく、教室の蛍光灯だけが白く冷たい光を落としている。

 私は何も言わず、ただセツナの机の上に一枚の付箋を置いた。

 そこには、場所と時間だけが殴り書きされていた。


 顔は一切見なかったけれど、視線の端で、彼女がそれを手に取る動作を確認した。

 その仕草は、あからさまに迷いを含んでいた。

 ――来るかな、それとも無視するかな。

 胸の奥で、くすぐったいような、ざらざらした期待が膨らむ。


 指定した場所は旧校舎の二階、使われなくなった家庭科室。

 埃と油の匂いが入り混じった空気が、誰もいない静けさをさらに濃くしていた。

 古いミシンや、脚のガタつく机が並ぶその部屋の奥で、私は腕を組んで待っていた。


 ドアが静かに開く音。

 振り向くと、セツナが立っていた。

 スカートの裾を握る手に力が入りすぎて、少し皺になっている。


「……来たんだ」

 私は笑った。自分でもわかる、試すような笑みだった。

 セツナは小さく舌打ちして、「来なきゃいけないんでしょ」と呟いた。


 ――ああ、この感じ。

 無理に私に従ってるようで、その実、どこかで私を見下している目。

 でも、その見下しが、少しずつ崩れていく瞬間を見たい。


「今日はね、簡単なこと。私と一緒に帰って」

「……は?」

「一緒に歩いて帰るの。駅まででいいから」

「そんなの……別に……」

「別に何? 嫌なら断ってもいいけど」

 わざとスマホをポケットから少しだけ覗かせる。

 その瞬間、セツナの肩がわずかに強張った。


「……わかったわよ」

 諦めと苛立ちと、ほんの少しの――不思議な感情が混ざった声。

 私には、その「不思議な感情」の正体がまだ掴めない。

 恐怖か、好奇心か、それとも……。


 家庭科室を出ると、廊下には西日が少しだけ差し込んでいた。

 人の少ない下校時間、二人で並んで歩く。

 セツナはほんの数センチだけ私との距離を空けていて、その距離が私にはたまらなく愛おしく、同時に腹立たしかった。


 下駄箱を出ると、校門へ向かう坂道が淡くオレンジ色に染まっていた。

 曇り空からようやく差し込んだ夕日が、アスファルトを斜めに照らす。

 制服のスカートの影が長く伸びて、私とセツナの影が、ほんの一瞬だけ重なった。


 それに気づいたのか、セツナが足を半歩だけ速めた。

 ――そんなに触れたくないの? 影ですら。

 胸の奥で、ちくりと何かが刺さる。

 でもその痛みは、なぜか甘くて、もっと深くまで差し込みたくなる。


「ねぇ、なんで私なの」

 唐突にセツナが口を開いた。

 声は低く、他の誰にも聞かせたくないような響きだった。


「なんでって?」

「……わかってるでしょ。あんなことして、命令だのなんだの……他にも狙える子なんていっぱいいるじゃない」

 私は少し考えるふりをして、わざと視線を遠くに向けた。

 本当の理由なんて言えるわけがない。

 ――あなたが好きだから、なんて。

 そんなことを言えば、この関係はすぐに壊れる。


「……たまたま夏乃の弱み見つけたからかな」

 簡単に、そして曖昧に答える。

 セツナは小さく鼻を鳴らし、それ以上は何も言わなかった。


 商店街の入り口まで来たとき、偶然、同じクラスの子がこちらに気づいた。

「え、夏乃と冬野じゃん。珍しい組み合わせ」

 その一言に、セツナがわずかに肩をすくめる。

 でも笑顔は作ってみせた。

「まぁ、ちょっとね」

 その笑顔が、いつも教室で見せる華やかな笑顔と少し違うことに、私だけが気づいていた。


 その瞬間、胸の奥で何かが確信に変わった。

 ――この人は、私が動かせる。

 少しずつ、ゆっくりと、確実に。


 駅前で別れるとき、セツナは小さくため息をついた。

「次は、何をさせるつもり?」

 その問いかけに、私はただ笑ってみせた。

「秘密」

 そう言うと、彼女はわずかに目を細め、でも立ち去る足は止まらなかった。


 背中が人混みに消えていくのを見送りながら、私はポケットのスマホを軽く握った。

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