花天月地【第76話 流星を待つ】
七海ポルカ
第1話
雨が降り始め、都の雑踏の人々は慌ただしく通りを走って行った。
二人は軒下に入るとずぶ濡れの互いの姿を見て、笑ってしまった。
どちらも、仕立てたばかりの新しい衣だったのを知っていたからだ。
「降られたな」
取り出した布でお互いの水気を叩いてやりながら、少しでも店に迷惑が掛からないように纏った雨粒を払いのける。
「私が馬車を断ったばかりに。すまんな、
「どうかお気になさらず。それに
「確かに」
店に入れば「いらっしゃいませ」とすぐ声が掛かった。
二人にとってここは馴染みのある店だったが、おや、と思うほど賑わっている。
「いらっしゃいませ」
案内人がやって来る。
彼は二人を知っていた。
「急に飛び込んですまない。降られて来て。随分今日は賑わっているが、一杯温かいのをいただけるかな。私も友人も、隅で全く構わないんだが」
「申し訳ありません。
あんな角になってしまってもよろしいですか……?」
いつもはこの二人が来るときちんと桟敷を用意してくれるので、非常に申し訳なさそうに案内人は言ったのだが、彼が指し示した場所を見て、
「火の側だ。ありがたい」
「服が乾く」
二人がそんな風に喜んだので、案内人も安心したようだ。
「ありがとうございます。すぐにお酒をお持ちします」
「ありがとう」
そこは確かに店の隅だが、店全体を見渡せる場所だった。
顔なじみの給仕が温めた酒と、いつも頼む肴を持って来てくれる。
「今日は随分と賑やかだね」
「涼州から商隊が到着したそうで、それで皆さん集まっていらっしゃいます」
「なるほど」
遠方からの商隊。
確かにこの店は味の評判がいいのでいつも賑わっているが、
聞き慣れない言葉もよく聞こえる。
いつもいない客が占めているようだ。
商隊と言っていたが、どの客も屈強で、商人というよりはその護衛のような感じだ。
いつもと雰囲気は違うが嫌な感じでは無かった。
活気に満ちていて悪くないと思う。
「
「今日、
「涼州は土地が厳しい。その分、馬も人も鍛えられて、武芸に秀でてる人間が多い。
交易が豊かになるのは喜ばしいことだが、辺境の人間というのは図太く野心に満ちて、恐れを知らず勇敢なものだ」
「最近名門の子弟と言っても、軟弱な若い者が増えている。
辺境の人間が今よりもっと都になだれ込んで来たら、あいつらに太刀打ちが出来るかどうか」
「しかし優秀な人間ならば物事の道理も弁えているでしょう。
それならば別に血の貴さが無くとも、取り立てて構わないと私は思いますよ」
「甘いぞ、
確かに賢い人間は道理が分かる。
しかし人の野心には果てがない。
のさばらせると、この世に混乱が起きる。
お前のような名門の血は、世が正しい方向に進む為の導きになるのだと、
任官しようとしまいと、名門には名門としての使命が生まれながらにある。
貧しいながらに這い上がってくる人間は、恐れがなく勇敢だ。
苦しみを乗り越えて世に名乗りを上げている。
その努力は評価されるべきだが、能力を磨くことに気を取られ、志や徳を磨き忘れている者もまた多いものだ」
「はい」
「荀爽殿のお話は受けるのだろう?」
酒を酌み交わしながら
その間も特に頼むこともなく、給仕が小さな机に二人が好きな料理を揃えて行ってくれた。
「正式なお話があれば」
「今日、
荀爽殿は同族としてお前を高く評価しておられる。
宦官共がのさばってる宮中において、高い地位を持っておられてもきっとそれで動きにくいと思われることもあるのだろう。
若いお前が側にいて動き回ってくれれば、必ずや荀爽殿は助かるに違いない。
私も同じだ。
洛陽にお前のような能力と人柄を兼ね備えた優秀な者がいてほしい」
答えなかったが表情から、
慎重で控え目な男なので、本当に正式な任官がない限りはこの長安から動くつもりはない、ただそれだけなのだろうと思う。
「黄巾の残党達の動きもまだ活発で、帝は不安がっておられる。
今こそ我らのような者が洛陽に集い、その地の平穏を取り戻し、強い守りとならねばならん」
これには荀攸は二度、頷いた。
「それにな、
さすがに荀家のことは私でも口が出せん。
「ご存知なのですか?」
「ご存知も何も近頃よく聞く。つまらぬ悪さをよく近隣の街でしているらしい。
同じ年頃の若い連中と徒党を組んで、泥棒のような真似事をしていると。
このままでは手塩に掛けて大切に育てて来た甥が道を誤らぬか心配なんだろう。
力になってやれ。
お前にとっては叔父とはいえ、年下の同族だ。話もしやすかろう」
何度か会ったことのある、本家にいる荀文若のことである。
有能な人間が多い荀一族の中でも、幼い頃から神童と呼ばれるほど秀でていた。
それでいて子供だというのに誉められても驕るところが少しも無く、周囲の大人達を尊敬し、礼節を弁えていて、立場上優秀な子供達を見るのには慣れている荀攸でも、確かに秀でた子供だなと感じる少年だった。
あの子が道を誤って悪い連中と徒党を組む……と想像して全く想像出来ず、荀攸は酒も入っていたため笑ってしまった。
「笑っている場合か。本当に荀爽殿は心配しておられたではないか」
「まあ心配はするでしょう。一族の長のような方ですから、広く荀家の人間達を見て、いつも気に掛けておられる。
ですが
悪い人間に唆されて悪の道に走るような質ではない」
「子供のことだ。分からんだろうそんなことは」
「確かにまだ任官も受けておられずお若いが、子供といっても何も分からぬ子供というわけではない。
それに何度か新年の集いで話をしたことがあるが、若いながらあの方は自分がどういう人間になりたいのか、すでに思い描けてるように感じました。
私などでは無く、荀家の優れた先達が、良き道標になっておられる」
「しかし宮廷のことだ。
身を清くしておかねば、後々どのような理由で付け入られるか分からん。
曹家の倅の悪い噂は確かによく聞く。
本当だぞ、公達。
関わりあるだけで痛くもない腹を勘ぐられるようなことはあってはならん。
大切な神童なら、付き合いには厳しく口を出すくらいがいい」
「分かりました。次の新年の集いで会うようなことがあれば、一度尋ねてみます」
「新年の集いと申して……今は蓮の季節だぞ、
そこに飾ってあった蓮の花一輪で
――――その時、
丁度荀攸が座っていた場所から前方の、二階からの階段に、下りてくる姿が見えた。
先程から人が頻繁に行き来していた時は、別に何も気にならなかったのに、その時目を引いたのは、下りてきた男の堂々とした雰囲気だったのだと思う。
背も高い男で、所々に金糸で縫われた高価そうな、深緑色の衣を身に纏っていたが、きちんと武具も扱えるよう鍛えられた肉体であることが、そのような衣を纏っていても分かる。
決して凝視していたわけではないが、ふとそっちに視線をやった時に、丁度目が合ってしまったので、荀攸は名も知らぬその男に自然と頭を軽く下げ、挨拶をしていた。
階段を下りてきた男は手にしていた酒を持って、やって来た。
「先程までいらっしゃらなかった方がいる。
私の商隊の者達が店を占拠してしまい、手狭なのだ。申し訳ない。
ご迷惑でなければ、一杯注いでもよろしいか」
「それはご丁寧に。頂こう」
「私もいただきます」
荀攸も倣う。
注いできた男に杯を小さく掲げ、友人同士顔を見合わせてから、飲み干す。
「美味しい」
素直にそう言っていて、
それを聞いた男が目を開くようにして、快闊に笑った。
聞こえたのだろう、店内中にいた商隊の人間達が、自分達の持って来た酒、自分達の故郷の酒が誉められ嬉しかったらしく、歓声を上げて拍手が起こった。
「こら、あまり騒ぐな」
部下達を宥めながら、しかし男も嬉しそうに目を細めている。
「故郷の酒が誉められるのは嬉しい。どうぞ、このままこれはお持ちください」
「澄んでいますね。でも強い酒だ」
「涼州の酒の特徴です。都の酒のような白濁した複雑な味わいとは違うが、気に入って頂けて良かった。
見たところお二人とも身分の高い方と思ったのだが、口に合って良かった。
この酒も、このあと
貴方がたのおかげで胸を張って運べる」
「公達殿は酒をよく嗜まれて舌が肥えておられるので、都の高貴な方々も喜ばれるでしょう」
「嬉しいな」
堂々とした偉丈夫という感じだったが人懐っこい顔で、男は笑った。
「これほどの商隊を率いておられるとは、貴方の方が余程の財をお持ちかと」
「とんでもない。小さな領地を賊から守る程度の者。涼州にも名門の豪族はおられるが、私は辺境の田舎者に過ぎません」
謙遜であることは分かった。
男の全身からも表情からも、自信が漲っている。
ここにいる商隊の人間達がこの男を首領のように崇め、従っているのが分かった。
そして男も、この少し粗野だが気のいい部下達を大切に扱っているのだろう。
商隊の護衛だが、都の近衛に負けないほどの覇気がこの男達にはあった。
興味が湧き、少し涼州の話を聞いた。
取るに足らない内容で、どうせだからと机に並んだ食事を勧めると男は喜んで口にした。
十五分ほどだったと思うが、外から人が呼びに来た。
これからすぐに洛陽に発つらしい。
「この雨は随分降りそうですよ。しかも夜分に発つとは大変なのでは。
よろしければよく知っている宿にご案内を……」
心配して二人が声を掛けたが、男は明るく笑って手で制した。
「いや。ありがたいが心配ご無用です。荒れた道に土砂降りなど、とっくに越えて長安まで来た。ここから
どうせならば一刻も早く洛陽に持ち込みたいので」
「それはご苦労な」
男は立ち上がった。
「お前達は今夜は
商隊の者達がありがとうございます、と一斉に立ち上がり一礼した。
部下達は見送ろうとしたが、料理が冷めるから先に食べろと男は苦笑して店を出て行った。
その言動に感心し、
男はすでに待たせていた馬に鮮やかに騎乗した所だった。
「お気を付けて」
「これは、わざわざかたじけない」
馬上から頭を下げる。
「遅れましたが、私は
「なんと、洛陽の方であったか。身分が高い方かとは思っていたが」
「数日後に洛陽に戻ります。そちらで会った時は、よしなに」
「無論のこと。またお会いできたら光栄です」
「私は
涼州の美酒、堪能させて頂きます」
「こうして涼州から都に来て、お二人のような方と知り合えることは嬉しいことだ。
ぜひまた。その時はゆっくりと酒を飲みながら話でもしましょう」
男はわざわざ馬から一度下り、二人に対して一礼をしてそう言った。
男がどんな身分なのかもよく分からなかったが、自然と出た礼は、深いものになった。
何か、
自然とそうさせるような、纏いのある男だった。
もう一度よく慣れた手つきで手綱を持ち、ひらりと馬上に上がると、強く降り始めた雨を全身で浴びながらも、男の顔は晴れていて、瞳は覇気に輝いて笑っていた。
「――――私は
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