「道具」として契約結婚した付喪神ですが、心を閉ざした魔払い師様の魂の叫びに寄り添っていたら、いつの間にか世界で一番愛されていました
☆ほしい
第1話
百年という歳月を経て、私は生まれました。
始まりは、とある古社の御神木から作られた一本の箏(こと)。人々は私の前で手を合わせ、家族の息災や国の平穏、愛する者の無事を、ただひたすらに祈り続けてくれました。
その清らかな願いは、長い時間をかけて私という器に満ちていき、月光の美しい今宵、ついに人の姿という形を得たのです。
ふわりと意識が浮上し目を開くと、そこは見慣れた社の境内でした。けれど、いつも見上げていた景色とは何もかもが違って見えます。
そっと自分の手を見下ろせば、そこには白く細い指がありました。人の手です。どうやら私は、人の形を得ることができたようでした。
「……わたし?」
初めて紡いだ言葉は、か細くも凛として夜の空気に溶けていきました。
自分が何者で、ここがどこなのか、まだ何も分かりません。ただ、心が温かいもので満たされているような、不思議な感覚だけが確かにありました。
御神木が風にそよぐ音、虫の鳴き声、遠くの川のせせらぎ。そのすべてが心地よい調べとなって私の耳に届きます。
おそるおそる立ち上がると、漆塗りの木地のように艶やかな黒髪が、腰までさらりと流れ落ちました。身に纏っているのは、まるで月光を編んだかのような白い衣です。
一歩、また一歩と歩みを進めるたびに、衣の裾が優雅に揺れます。見るもの聞くものすべてが新しく、私の心を躍らせました。
これが世界。これが、生きるということなのでしょうか。
その時でした。境内の静寂を破って、一人の青年が姿を現したのは。
彼は闇に溶け込むような暗い色の服を身に纏い、私の方へまっすぐに歩いてきます。月明かりに照らされた横顔は精巧な彫刻のように整っていましたが、その瞳には深く昏い影が落ちていました。
まるで世界そのものを拒絶するかのような、そして、拭い去れないほどの悲しみがその奥に澱んでいるような、そんな瞳でした。
「お前が、この社の箏の付喪神か」
彼の声は低く、感情の起伏をほとんど感じさせません。
私は、こくりと頷きました。付喪神、それが今の私なのですね。また一つ、自分のことを知ることができました。
「……あなたは、どなたですか?」
私の問いに、青年はすぐには答えませんでした。ただ、その鋭い瞳で、私を値踏みするようにじっと見つめています。
彼の視線は氷の刃のように冷たく、肌を突き刺すようです。けれど、不思議と怖いとは感じません。むしろ、彼の瞳の奥で渦巻いている悲しみが、私の胸を締め付けるのです。
「……九条戒人(くじょう かいと)」
しばらくの沈黙の後、彼は短くそう名乗りました。そして、魔を祓うことを生業とする、魔払い師だと付け加えます。
魔。その言葉を聞いた瞬間、私の魂が微かに震えました。
人々の憎しみや悲しみといった負の感情が凝り固まって生まれる異形の存在。私の本質である清浄な霊気とは、まさしく対極にあるものです。
「用件を言おう。お前には、俺の道具になってもらう」
戒人様の言葉は、あまりにも直接的で何の含みもありませんでした。
道具。言葉の意味は分かります。けれど、なぜ私が彼の道具にならなければならないのか、その理由が分かりません。
「破られかけているんだ。この地をかろうじて守っている、大いなる魔の封印が」
戒人様は、誰に言うでもなく吐き捨てるように言いました。
その瞳が一瞬だけ強い憎しみの色に染まり、私の心を直接抉るように突き刺さります。
「一族が代々、命を賭して守ってきた封印だが、それも限界が近い。封印を再び完成させるには、清浄な霊力を持つ付喪神の協力が不可欠となる」
彼は淡々と、しかし切迫した響きを声に含ませて説明します。
私には、話の半分も理解できませんでした。封印や世界の危機と言われても、生まれたばかりの私には現実感のない言葉の羅列にしか聞こえません。
それでも、彼の魂が悲痛な叫びを上げているのだけは、はっきりと感じ取れました。
彼は、たった一人で何かとてつもなく重いものを背負って戦っているのです。誰にも頼らず、誰にも理解されることなく。その果てしない孤独が、彼の心を凍てつかせ、あのような昏い瞳にさせてしまったのでしょう。
「お前には、世界を救うための道具になってもらう。拒否権はない」
有無を言わさぬ、強い口調でした。それは命令であり、揺るがすことのできない決定事項なのだと、彼の全身が物語っています。
私は、彼の目をじっと見つめ返しました。
その瞳の奥にある、悲しみの源に触れてみたいと思いました。この人の隣で、私に何かできることがあるのなら、と。
「……分かりました」
私の返事に、戒人様は僅かに眉をひそめました。もっと抵抗したり、あるいは泣き喚いて命乞いをしたりするとでも思っていたのでしょうか。
残念ながら、私にはまだ恐怖や絶望といった感情がよく分かりません。ただ、目の前のこの人が、どうしようもなく助けを求めているように思えたのです。
「私は、あなたの道具になります。それで、あなたが救われるというのなら」
私の言葉に、戒人様の纏う空気がほんの少しだけ揺らぎました。
彼は何かを言いかけて、けれど結局は唇を固く結んだまま、私に背を向けます。
「……行くぞ」
その背中は、やはりどこまでも孤独に見えました。
私は黙って、彼の後をついて歩き始めます。
これから私を待ち受ける運命も、偽りの婚礼によって彼と私の魂が固く結びつけられることになる未来も、まだ何も知りません。
ただ、凍てついた彼の心を癒す温かい調べを奏でたい。その一心だけで、私は未知なる世界へと第一歩を踏み出したのです。
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