第3章 最初の異変
翌朝、陽一は寒さで目を覚ました。
時計を見ると、午前六時。窓の外は真っ白だった。一晩中降り続いた雪は、合宿所を完全に閉じ込めていた。
部屋を出ると、廊下で美咲と会った。彼女もまた、寒さで起きたらしい。
「おはよう。すごい雪ね」
「うん。これじゃ帰れないかも」
二人は階下に降りた。食堂では、すでに西川がコーヒーを飲んでいた。目の下のクマは、さらに濃くなっている。
「おはようございます。寝てないんですか?」
陽一が尋ねた。
「昨夜のエラーの原因を調べていました。でも、分からない」
西川の手が微かに震えていた。疲労か、それとも別の何かか。
「システムに仕込まれた隠しプログラムかも」
「誰が、何のために?」
「分かりません。ただ...」
西川は言いかけて口を閉じた。
続々と他のメンバーも起きてきた。山田は眠そうな顔をしていたが、食堂に入った瞬間、動きが止まった。
「おはよう...って、ここどこ?」
全員が山田を見た。
「え?合宿所だよ」
陽一が答えた。
「そうか...でも、なんか現実って感じがしないな」
山田はぼんやりとした顔で席に着いた。
「山田さん、大丈夫?」
美咲が心配そうに顔を覗き込んだ。
「うん、大丈夫...たぶん」
山田はコーヒーを口に運んだ。そして、奇妙なことを言った。
「味がしない」
「え?」
「コーヒーの味がしないんだ。温度は感じるけど、味が...」
田中がすぐに山田の額に手を当てた。
「熱はない。風邪じゃなさそうだ」
「味覚障害?」
林が心配そうに言った。
「違う」
美咲が鋭い声で言った。
「山田さん、昨日の夜、VRの中で何を体験した?」
「ゲームセンター...ゲームができない恐怖...」
「その後は?」
「その後?覚えてない...いや、夢を見たような...」
山田の瞳孔が、微妙に開いたり縮んだりを繰り返していた。美咲はその様子を注意深く観察した。
「陽一、これ変よ」
美咲が小声で言った。
「瞳孔の動き、自律神経の反応じゃない。まるで、外部から制御されてるみたい」
「外部から?」
「分からない。でも、普通じゃない」
朝食の間、山田の様子はますますおかしくなっていった。同じ動作を繰り返したり、会話の途中で止まったり。まるで、プログラムにバグが生じたゲームキャラクターのようだった。
◆
午前十時、VR体験室で緊急ミーティングが開かれた。
「山田さんの状態が心配です」
美咲が切り出した。
「昨夜のVR体験後、明らかに様子がおかしい」
「VR酔いの一種かもしれません」
西川が説明しようとしたが、美咲は首を横に振った。
「違います。私、犯罪心理学で薬物中毒者の症状を学びました。山田さんの症状は、意識が現実と別の場所を行き来してる人の症状に似ています」
「別の場所?」
「VRの中...かもしれない」
その時、山田が立ち上がった。
「ちょっとVRやってきます」
「え?今?」
田中が止めようとしたが、山田は聞かなかった。
「なんか、やらなきゃいけない気がして」
山田はヘッドセットを装着した。システムが起動し、モニターに映像が映し出される。
しかし、その映像は昨日とは全く違っていた。
真っ暗な空間に、一つの扉だけが浮かんでいる。山田がその扉に近づくと、扉が開いた。
中には、もう一人の山田がいた。
「やっと来たね」
VR内の山田が話しかけた。
「君は誰?」
「君だよ。完璧な君」
二人の山田が向かい合う。そして、VR内の山田が手を伸ばした。
「一緒になろう」
その瞬間、現実の山田が倒れた。
「山田さん!」
美咲が駆け寄った。呼吸はしているが、意識がない。瞳孔は開いたまま、焦点が定まらない。
「救急車を!」
松本が叫んだ。
「電話が通じません」
林が青ざめた顔で言った。
「雪で基地局がやられたみたいです」
「車は?」
「この雪じゃ無理だ」
西川がシステムを確認した。
「山田さんの脳波...通常の十倍の活動を示しています」
「十倍?」
「まるで、二人分の意識が...」
西川は言葉を詰まらせた。
陽一は、モニターを見つめた。VR内では、二人の山田が融合していく様子が映し出されていた。現実の山田と、VRの山田。その境界線が溶けていく。
「システムを切断して!」
陽一が叫んだ。
「できない。強制終了すると、脳にダメージが...」
西川の顔は蒼白だった。
◆
山田を急いで部屋に運び、寝かせた。呼吸は安定しているが、意識は戻らない。
「これは事故じゃない」
美咲が断言した。
「誰かが意図的に仕組んだ」
「誰が?」
陽一が尋ねた。
美咲は西川を見た。
「西川さん、本当に知らないんですか?」
「知らない...いや、でも...」
西川は頭を抱えた。
「似たような実験の記録を見たことがある。意識転送の実験...」
「意識転送?」
「人の意識をデジタル化して、VR空間に移す技術。理論上は可能だが、実用化はされていないはず」
陽一は背筋が冷たくなった。山田の意識は、今どこにあるのか。現実か、VRか、それとも——
「とにかく、山田さんを助ける方法を探しましょう」
田中が提案した。
「システムログを解析すれば、何か分かるかも」
全員でシステムの解析を始めた。膨大なデータの中から、異常を探す。
その作業中、陽一は奇妙なフォルダを発見した。
「Project_Liminal_True」
「これは?」
西川が覗き込んだ。
「知らない...こんなフォルダ、作った覚えがない」
フォルダを開くと、大量の研究資料が入っていた。その中に、一枚の写真があった。
若い女性。美しい笑顔。そして、その隣には若い頃の西川。
「由香...」
西川が呟いた。
「由香?」
「私の...恋人だった」
西川の目に、涙が浮かんだ。
「三年前、交通事故で亡くなった。私のせいで...」
美咲が優しく尋ねた。
「あなたのせい?」
「デートの約束をしていた。でも、私は仕事を優先した。由香は一人で待ち続けて、帰り道で事故に...」
西川の声が震えていた。
「それ以来、私は...由香ともう一度会いたくて...」
「まさか」
陽一が気づいた。
「『Liminal Space』は、そのために?」
西川は頷いた。
「VRの中でなら、由香と永遠に一緒にいられる。完璧な世界で、死も別れもない」
「でも、それは本物じゃない」
美咲が言った。
「本物?何が本物だ?」
西川の目が光った。
「この現実が本物だと、誰が証明できる?」
その時、田中が叫んだ。
「大変だ!他のVR機器も勝手に起動してる!」
体験室に戻ると、全てのVRヘッドセットが光を放っていた。モニターには、同じメッセージが表示されている。
『The boundary is dissolving』
『Join us in the perfect world』
完璧な世界へようこそ——そのメッセージが、陽一たちを誘っていた。
◆
午後、事態はさらに悪化した。
田中が突然、VRヘッドセットを手に取った。
「ちょっと確認したいことがある」
「田中さん、危険です!」
美咲が止めようとしたが、田中は聞かなかった。
「大丈夫。プロとして、システムを内部から確認する必要がある」
田中はヘッドセットを装着した。
モニターに映し出されたのは、巨大な音楽ホールだった。完璧な音響、理想的な構造。田中は恍惚とした表情で、その空間を見回している。
「すごい...これが本物の音だ」
田中の声が響いた。
「現実の音なんて、ノイズだらけのゴミだ」
「田中さん!」
陽一が呼びかけたが、反応がない。
その時、美咲が気づいた。
「待って、田中さんの手の動き」
美咲はモニターを指差した。
「指揮者みたいに手を振ってる。でも、リズムが変。3拍子と4拍子が混在してる」
「どういうこと?」
「二つの意識が同時に動いてる。田中さんの意識と...別の何か」
美咲の観察眼が、異常を正確に捉えていた。
そして、田中もまた、VRの世界に取り込まれていった。
林も同じ運命を辿った。彼女は、歪んだ建築への恐怖を克服したいと言って、自らヘッドセットを装着した。
しかし、装着する直前、美咲が林の瞳孔を観察した。
「林さん、もう始まってる」
「何が?」
「瞳孔の散大。自律神経の異常。VRに入る前から、すでに何かに影響されてる」
しかし、林は聞かずにヘッドセットを装着した。そして、完璧な建築物の世界に魅了され、帰ってこなかった。
「みんな、VRに取り込まれていく」
美咲が震え声で言った。
「私たちも、いずれ...」
「大丈夫」
陽一は美咲の手を握った。
「僕たちは大丈夫。現実の価値を知ってるから」
しかし、その言葉に自信はなかった。
夕方、残されたのは陽一、美咲、西川、松本の四人だけだった。
松本は、息子の写真を見つめていた。
「私は絶対にVRには入らない」
松本の声は固かった。
「息子を奪ったVRなんて、二度と...」
西川は、窓の外を見つめていた。雪は止む気配がない。
「もうすぐだ」
西川が呟いた。
「もうすぐ、全員が完璧な世界の住人になる」
「西川さん、あなたが仕組んだんですか?」
美咲が問い詰めた。
西川は振り返った。その顔には、狂気と悲しみが入り混じっていた。
「仕組んだ?違う。これは由香からの招待状だ」
「由香からの?」
「そうだ。由香はVRの中で生きている。そして、私たちを待っている」
その時、陽一は気づいた。隠し部屋の存在を。
「美咲、二階の隠し部屋を調べよう」
二人は二階に上がった。林が指摘していた壁の前に立つ。
陽一は壁を押した。すると、壁の一部が動いた。隠し扉だった。
中は、小さな研究室のようだった。古いコンピューター、大量の資料、そして——
ベッドに繋がれた、大量の医療機器。
「これは...」
美咲が息を呑んだ。
資料を見ると、恐ろしい真実が明らかになった。
『意識転送実験記録』
『被験者:西川由香』
『実験日:三年前』
『結果:肉体は死亡。意識データの保存に成功』
「由香さんは...実験の被験者だった?」
陽一は資料を読み進めた。
由香は交通事故で脳死状態になった。西川は、彼女の意識を救うため、実験的な意識転送を行った。肉体は死んだが、意識データは保存された。そして、そのデータは——
「『Liminal Space』の中に組み込まれている」
美咲が震え声で言った。
「だから、みんなVRに引き込まれる。由香さんの意識が、みんなを呼んでいる」
二人は顔を見合わせた。
現実と仮想の境界線は、もはや完全に溶けかけていた。
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