VRに囚われた仲間を救うため、俺と観察眼の鋭い彼女は現実とVRの境界線に立ち続けた
千日 匠
第1章 現実とVRの境界線
十二月の東京は、いつもより冷え込んでいた。
ネクサス・リアリティ社の開発フロアで、佐藤陽一はモニターを睨みながらキーボードを叩いていた。画面には無数のコードが流れている。バグの修正作業だ。隣のデスクでは同僚たちがVRヘッドセットを被り、何やら楽しそうに笑い声を上げている。
陽一は、ポケットの中の古い百円玉を指でなぞった。表面には小さな傷がある。二年前、母からもらったお守りだ。
「佐藤君、まだVRやらないの?」
声をかけてきたのは、隣の席の木村だった。三十代前半のベテランプログラマーで、VRゲームが大好きな男だ。
「今は仕事に集中したいので」
陽一は画面から目を離さずに答えた。
「もったいないなあ。せっかくうちの会社にいるのに。新作の『Liminal Space』、めちゃくちゃ面白いよ」
「リミナル・スペース?」
その名前に、陽一は顔を上げた。
「現実とVRの境目って意味らしいよ。西川さんが半年かけて作ってる大作。プレイヤーの恐怖を読み取って、その人だけの恐怖体験を作り出すんだって」
木村は興奮気味に説明を続けたが、陽一の脳裏には別の記憶が蘇っていた。
——二年前の、あの日。
当時、陽一は大学四年生だった。哲学科に在籍しながら、趣味でプログラミングを学んでいた。そして、VRゲームにどっぷりとはまっていた。
最初は一日二、三時間程度だった。それが次第に増えていき、気がつけば講義もサボってVRの世界に入り浸るようになっていた。現実よりもVRの方が楽しい。痛みもなく、失敗してもリセットできる。完璧な世界だった。
あの日、陽一は四十八時間ぶっ通しでVRゲームをプレイしていた。食事も取らず、トイレも最小限。意識が朦朧とする中、母親が部屋に入ってきた。
『陽一!もういい加減にしなさい!』
母は泣きながらVRヘッドセットの電源を切った。その瞬間、陽一の中で何かが切れた。
『やめろ!』
陽一は母を突き飛ばした。母は床に倒れ、驚いた顔で息子を見上げた。その目に浮かんでいたのは、恐怖だった。
自分の息子を恐れる母の顔。それを見た瞬間、陽一は我に返った。
『ごめん...ごめん、母さん』
震える手で母を助け起こした。母は何も言わず、ただ陽一を抱きしめた。その時、母のポケットから古い百円玉が転がり落ちた。
『これ、お守りにしなさい。現実を忘れないように』
表面に傷のある百円玉。それ以来、陽一はこれを肌身離さず持ち歩いている。
「佐藤君?聞いてる?」
木村の声で、陽一は現実に引き戻された。
「あ、すみません。ちょっと考え事を」
「まあいいや。今度一緒にテストプレイしようよ。君みたいな哲学科出身の変わり者の意見も聞きたいし」
木村は笑いながら自分の席に戻っていった。
陽一は再びコードに向き直ったが、集中できなかった。『Liminal Space』——現実とVRの境界線。その名前が、妙に引っかかった。
◆
午後三時、陽一は上司に呼ばれてVR体験室に向かった。
ネクサス・リアリティ社のVR体験室は、社内でも特別な場所だった。防音設備が整い、最新のVR機器が揃っている。壁一面には巨大なモニターが設置され、VR内の映像を外部から確認できるようになっていた。
部屋に入ると、すでに数人のスタッフが集まっていた。その中に、一人の女性がいた。
肩までの黒髪に、大きな瞳。白いブラウスにジーンズというラフな格好だが、どこか芸術家らしい雰囲気を漂わせている。手には古いスケッチブックを持っていた。
「あ、佐藤君。紹介するよ」
プロジェクトリーダーの西川が近づいてきた。三十五歳の西川は、社内でも有名な天才プログラマーだ。ただ、最近は目の下にクマができ、やつれた印象があった。
「こちらは佐々木美咲さん。フリーの3Dモデラーで、今回『Liminal Space』のビジュアル制作を手伝ってもらってる」
「佐々木です。よろしく」
美咲は軽く会釈をした。その時、陽一は気づいた。美咲の手が、微かに震えている。緊張?いや、違う。何かを描いた後の、創作の余韻のような震えだ。
「佐藤陽一です。プログラマーをしています」
「哲学科出身のプログラマーさんですよね。西川さんから聞いてます」
美咲は微笑んだ。
「今日は『Liminal Space』の初期テストをやってもらいたいんだ」
西川が説明を始めた。
「このゲームの特徴は、プレイヤーの深層心理を読み取って、その人だけの恐怖体験を作り出すこと。脳波センサーで無意識の反応を検知して、リアルタイムで世界を変化させる」
「つまり、人によって全く違う体験になるってことですか?」
陽一が尋ねると、西川は頷いた。
「そういうこと。さあ、まずは美咲さんから体験してもらおうか」
美咲はVRヘッドセットを装着した。モニターに、VR内の映像が映し出される。
最初は、美しい草原の風景だった。青い空、緑の草、遠くに見える山々。まるで絵画のような完璧な景色。
「きれい...」
美咲の声が聞こえた。
しかし、次の瞬間、景色が変化し始めた。草が枯れ、空が赤く染まる。地面に亀裂が走り、そこから黒い何かが湧き出してくる。
「これは...」
美咲の呼吸が荒くなった。
画面の中で、黒い何かが形を成していく。それは、巨大な筆だった。その筆が空中に文字を書き始める。
『お前の絵は偽物だ』
美咲が小さく悲鳴を上げた。
「大丈夫ですか?」
陽一が心配そうに声をかけた。
「システム正常。脳波も安定してる」
西川は冷静にデータを確認していた。
十分後、美咲はヘッドセットを外した。顔が青ざめている。
「どうでした?」
西川が尋ねた。
「すごい...でも、怖かった。私の一番恐れていることを、正確に突いてきた」
美咲は震える手でスケッチブックを開いた。そこには、VR内で見た光景が素早くスケッチされていた。
陽一は驚いた。VRを体験しながら、同時にスケッチしていたのか。
「面白い」
美咲が呟いた。
「VRの中では、完璧な絵が描ける。手の震えも、線のぶれもない。でも...」
彼女はスケッチを見つめた。
「この震えた線の方が、私らしい気がする」
陽一は、美咲の言葉に何か大切なものを感じた。完璧と不完全。その境界線について。
「次は佐藤君の番だ」
西川がヘッドセットを差し出した。
陽一は一瞬躊躇した。二年前の記憶が蘇る。しかし、ポケットの百円玉を握りしめ、ヘッドセットを装着した。
視界が切り替わる。
最初に見えたのは、自分の部屋だった。いや、正確には二年前の自分の部屋。散らかった床、積み上げられたゲーム、そして——
VRヘッドセットを被った自分自身。
その「自分」がゆっくりと振り返る。顔は見えない。ただ、口元だけが歪んで笑っている。
『現実なんていらない』
その声は、確かに自分の声だった。
陽一は息を呑んだ。これが自分の恐怖。VRに取り込まれ、現実を失う恐怖。
部屋の壁が溶け始める。現実とVRの境界が曖昧になっていく。床が消え、天井が消え、全てが闇に包まれる。
その闇の中で、一つの光が見えた。
母の顔だった。泣いている母。自分を恐れる母。
『陽一、帰ってきて』
母の声が響く。
陽一は手を伸ばそうとした。しかし、体が動かない。VRの世界に縛られ、現実に触れることができない。
「やめてくれ!」
陽一は叫んだ。
次の瞬間、視界が現実に戻った。ヘッドセットを外したのは美咲だった。
「大丈夫?顔色が真っ青よ」
美咲が心配そうに陽一の顔を覗き込んだ。その瞳に、先ほどとは違う感情が宿っている。共感、そして理解。
「ありがとう...大丈夫です」
陽一は震える声で答えた。
「興味深いデータが取れた」
西川がモニターを見ながら言った。
「佐藤君の恐怖パターンは特殊だね。VRそのものへの恐怖と、現実喪失への恐怖が混在してる」
「すみません、少し休憩を」
陽一は体験室を出た。廊下で壁にもたれかかり、ポケットから百円玉を取り出した。表面の傷を指でなぞる。これは現実。確かな現実。
「大丈夫?」
美咲が追いかけてきた。
「心配かけてすみません」
「謝らないで。私も似たような経験があるから」
美咲は壁にもたれて陽一の隣に立った。
「絵を描いてると、時々分からなくなるの。これは本当に私の絵なのか、それとも誰かの真似なのか。オリジナルとコピーの境界線が曖昧になって」
「それで、VRの中で『偽物』と言われたんですね」
「ええ。でも、おかしな話よね。VRの中の完璧な絵より、現実の震えた線の方が本物だと感じるなんて」
美咲はスケッチブックを開いた。そこには、陽一の横顔が描かれていた。いつの間に描いたのだろう。線は確かに震えている。でも、そこには確かな「美咲らしさ」があった。
「いい絵ですね」
「ありがとう。でも、見て」
美咲は鉛筆を取り出し、陽一の目の前で素早く何かを描き始めた。わずか数秒で、西川の特徴を捉えた顔が浮かび上がる。
「西川さんの表情筋の動き、普通じゃない。特に左目の下の痙攣」
「痙攣?」
「ストレスや睡眠不足だけじゃこうはならない。薬物か、あるいは...」
美咲は描きながら分析を続けた。
「極度の罪悪感。目を合わせる時、必ず0.3秒遅れる。これは嘘をついている人の特徴」
「いい絵ですね」
「ありがとう。でも、見て」
美咲は鉛筆を取り出し、陽一の目の前で素早く何かを描き始めた。わずか数秒で、西川の特徴を捉えた顔が浮かび上がる。
「西川さんの表情筋の動き、普通じゃない。特に左目の下の痙攣」
「痙攣?」
「ストレスや睡眠不足だけじゃこうはならない。薬物か、あるいは...」
美咲は描きながら分析を続けた。
「極度の罪悪感。目を合わせる時、必ず0.3秒遅れる。これは嘘をついている人の特徴」
「犯罪心理学で習ったの」
美咲が説明した。
「芸大で副専攻として。人の表情や仕草から心理を読み取る訓練を受けてた。西川さんは、何か大きな喪失を抱えてる。たぶん、大切な人を失った」
その時、体験室のドアが開いた。西川が顔を出す。
「二人とも、ちょっといいかな」
◆
会議室には、すでに数人のスタッフが集まっていた。
テスターの山田健太。サウンドデザイナーの田中智。UIデザイナーの林香織。そしてプロデューサーの松本。
「実は来週、山の合宿所でデバッグ合宿をすることになった」
西川が切り出した。
「え〜、また合宿ですか〜」
山田が大げさにため息をついた。二十八歳の山田は、いつも陽気で楽天的な性格だ。ただ、松本と目が合うと、なぜか視線をそらした。
「最終テストです。『Liminal Space』を完成させるには、皆さんの協力が必要なんです」
西川の声には、どこか切迫したものがあった。
「場所は群馬の山奥。会社が所有している古い合宿所です。三日間、集中してテストとデバッグを行います」
「山奥かあ。電波届くんですか?」
田中が心配そうに尋ねた。三十歳の田中は、真面目で几帳面な性格だ。
「一応届きますが、天候によっては不安定になるかもしれません」
「まあ、集中できていいんじゃない?」
林香織が前向きに言った。二十四歳の林は、建築にも詳しく、空間デザインのセンスが光る。
「予算の関係で、三日で終わらせてくださいね」
松本が釘を刺した。四十歳の松本は、現実主義者として知られているが、VRゲームには否定的な態度を取ることが多い。
「佐藤君と美咲さんも参加してもらえますか?」
西川が二人を見た。
「私は構いませんが...」
陽一が答えた。
「私も大丈夫です。面白そうだし」
美咲も頷いた。
「では、来週の月曜日、朝九時に会社集合で」
会議が終わり、皆が部屋を出て行く中、陽一は美咲を呼び止めた。
「美咲さん、一つ聞きたいことがあるんです」
「なに?」
「西川さんのことですが...本当に大丈夫だと思いますか?」
美咲は少し考えてから答えた。
「正直、分からない。でも、あの人の目...何かに取り憑かれてる人の目よ」
「取り憑かれてる?」
「ええ。過去か、理想か、あるいは...」
美咲は言いかけて口を閉じた。
「あるいは?」
「死者かもしれない」
その言葉に、陽一は背筋が寒くなった。
夕方、陽一は一人で屋上に上がった。東京の街が夕日に染まっている。どこまでが現実で、どこからがVRなのか。その境界線は、思っているより曖昧なのかもしれない。
ポケットから百円玉を取り出し、夕日にかざした。傷が光を反射して、不規則な模様を作り出す。完璧ではない。でも、これが現実だ。
来週の合宿。なぜか、嫌な予感がした。
でも、美咲と一緒なら大丈夫だろう。あの観察眼があれば、何か異変があってもすぐに気づけるはずだ。
陽一はそう自分に言い聞かせた。
しかし、この時の陽一は知らなかった。現実とVRの境界線は、思っているよりもずっと脆く、そして危険なものだということを。
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