悪天

@suzumi_0

第一章 風は吹き荒れ水は暗く沈む

1

梓娟しえんよ、お前は今からそう眞佳かしんの下へ行け」

「はい?」


 こく善爾ぜんじの無茶苦茶な命に、黒梓娟は顔を引き攣らせながら思わず声を上げていた。

 この世には魔物まのものと呼ばれる、人々の安寧を脅かす恐ろしい魑魅魍魎が溢れ返っている。これを強い霊力と優れた剣技を持って退治するのが『祓氏ふつし』と呼ばれる存在だ。

 祓氏の中でも最も優れた血筋──尊き五体の霊獣の血を引く五つの家を『五門家ごもんけ』と呼ばれ、その五門家が作り上げた五つの集団『祓氏五門』が祓氏たちの中で強い権威を持っていた。

 黒家はその五門家の一つだ。その身には崇高たる霊獣玄武の血が流れ、遥か昔より北方の地を領有し『龜北清閑きんぼくせいかん』という名の祓氏集団を束ねていた。

 そして苦い顔をする梓娟の目の前で、ふんぞり返って座る髭を生やした白髪の伯父が黒家当主だ。

 黒家の表徴である黒い衣が見た目の柄の悪さを際立たせており、玄武なんて尊い存在よりも、どす黒く尊大な鬼の血が流れていると言われた方がしっくりとくる。

 

「……伯父上、蒼眞佳とはあの蒼眞佳ですか?高潔過ぎて聖人って言われているあの?」

「そうだ、その若造以外に誰がおる」


 梓娟はずきずきと痛むこめかみに手を当てた。

 蒼眞佳はかなり有名な男の名で、その存在を知らぬ者はいない。蒼家は黒家と同じく五門家の一つで彼はその蒼家の若君。つまりは次代の当主と定められた男だった。

 蒼家は青龍の血を引き、東方を領有して龍東万雷りゅうとうばんらいと言う祓氏集団を束ねている。五門家の中でもかなり厳格な家柄で、特に血統を重んじて青龍の濃い血筋を守る為に頑なに血族婚を貫く一族だった。

 余所者との関わりを良しとせず、縁も所縁もない者が蒼家に近づく事すら難しい。その若君ならば尚の事。


「いや、絶対無理でしょ、蒼眞佳に嫁ぐだなんて。蒼家が他家の女を受け入れるなんて天地がひっくり返っても無いわ」


 梓娟はきっぱりと言い切った。

 梓娟も歳が十九になり、伴侶を持っていないのは世間の姫君の適齢期からすればやや遅い方で、当主の姪たる立場で許婚すらいないのは珍しかった。

 なので黒家の姫としていずれは家が定めた婚姻を結ぶ事になるだろうと覚悟していた。この頃では、当主である伯父が何かを企んでいると、使用人たちが噂しているのを梓娟の耳に届いていた。

 なのでその話で呼ばれたのかと覚悟して来てみれば、蒼家に嫁げとは笑えない。

 しかし黒善爾はそんな梓娟を鼻で笑う。


「はっ、誰も嫁げとは言うとらん」

「へ?」

「半年後にある山狩りであの若造に恥をかかせてやりたいだけだ。その為に色香で気を乱して腑抜けにさせて来い」


 伯父の言葉に梓娟は頭の痛みが更に強くなるのを感じた。 

 山狩りとは、年に一度、開催は五方中央にある、閉ざされた神域『天霊山てんりょうざん』を開放して行われる。祓氏五門の祓氏たちが集結し、山の中に放たれた魔物を狩る遊びだ。

 表向きは優劣を決めない遊びと言っているものの、家の矜持をかけた熱き闘いで、どこの祓氏五門が一番多く魔物を倒せるかを競っていた。

 ちなみに梓娟はと言うと、龜北清閑に属している訳ではないので山狩りには出場の権利はなく、そもそも山狩りに出られるのは各一門で選び抜かれた者たちのみ。他の者たちは熱き闘いの見物だ。

 黒家の姫である梓娟は呑気におしゃべりをしながら時が流れるのを待つ各家の姫君や夫人たちの輪の中に混じることもなく、黒家の御車の中からこっそりと行く末を眺めていた。


 ──伯父上ったら、随分と去年の山狩りを根に持っているのね……。


 梓娟は小さくため息を落とした。

 これまで山狩りは黒善爾の一人息子の黒聯明こくれんめいが、群を抜く強さで龜北清閑に勝利をもたらしていた。

 しかし昨年勝利したのは龍東万雷だった。蒼眞佳が年々腕を上げて、とうとう栄光を手にしたのだ。

 そのお陰で恒例となっていた従兄から求められる小っ恥ずかしい勝利の抱擁は無く、梓娟はほっと胸を撫で下ろしたものだ。

 ふと、昨年山狩りで見た蒼眞佳の姿が頭の中に浮かび上がった。


 ──蒼眞佳は美しい人だけれど、剣を振るう姿はもっと美しかったわ。


 蒼眞佳は見目麗しい男だった。

 魔物を前にしても尚微笑みを絶やさず、俊敏に剣を振るいながらも落ち着いた物腰はどこか優雅さを感じた。あれはまるで剣舞を披露しているかのように美しかった。

 見た目の美しさから始終姫君たちの注目を掻っ攫い、辺りには常に甲高い声が響いていた。

 そんな黄色い声すらもいつしか気にならず、梓娟ですら彼の美しさに目を奪わて、思わずため息を落としてしまった程だ。

 そして山狩りが終わった後、勝利を逃した伯父はかなり悔しがっていた。その夜に行われる宴を初めて欠席し、帰りの途に着く御車の中で浮かべる苦虫を噛み潰したようなあの恐ろしい形相は、その夜夢にまで見た程だ。


 ──成る程、だからか。


 そうかそうか、と頷いてから口を開く。


「いや無理でしょ!相手は聖人なのよ!」


 梓娟はきっぱりと言い切った。

 彼にはとある噂がある──蒼眞佳は最も高潔な男だ、と。

 女にはさらさら興味がないと言われており、伴侶はまだおらず、許嫁や恋人もいないらしい。どんな美人から言い寄られても靡くことは無く、女人に触れられる事すら疎むと言われている。

 故にと影で呼ばれていた。

 彼の歳はまだ二十を少し過ぎた位。そんな精力溢れる歳にしては未だ女の体を知らない、彼処が小さくて使えない、女体を前にしても勃たたない、などと無礼千万な噂がある程だ。

 百歩譲って幾ら厳格な家と言えども家の外で出会えばお近づきになる可能性は無くもないが、そもそも女に興味が無いのなら難攻不落の城塞だ。

 

「何より色香って、私には無理があるでしょう!」


 梓娟は亡くなった母に似ていると言われるので少なからず見目は良い方だと思っているが、あの蒼眞佳の横に並ぶにはかなり厳しい。どちらかと言えば姫にしては気が強い方で、控え目な所と言えば胸ぐらいだ。

 

「これまで美人を幾度も差し向けたがどいつも玉砕。彼奴はどんな淑やかな女でも興味を示さん!正攻法では無理となれば逆を行くしかあるまい。ならば淑やかとは真逆なお前に任すしか他なかろう!」

「なんて酷い!」


 髭伯父の心無い言葉に梓娟は負けじと声を荒げていた。

 短気な黒善爾の事なので、山狩りの直後から女を度々送っていたのだと読み取れた。そして靡かぬまま半年が過ぎ、痺れを切らしたようだ。寧ろ短気な伯父がよく半年もったものだと感心する。


「何も本当に深い仲になれとは言わん。あの澄ました顔を少しでも阿呆面にさせれば良いのだ」

「蒼眞佳は澄ましてるというか菩薩顔じゃないかしら?いつもにこにこしてるし」


 梓娟の中の彼は柔和な笑みを浮かべるとても穏やかそうな人の印象だ。

 山へと向かう中、突然振り向いて何かに微笑んでいたのを思い出す。あの笑顔は紛れもなく菩薩の微笑み。あまりの神々しさに目が眩んでしまったぐらいだ。


「何が菩薩だ、あれは軟弱な顔つきと言うんだ!」


 黒善爾が椅子の肘掛けに手を強く叩きつける。

 余程蒼眞佳が気に食わぬようだ。そうでなければ自分を家から出す手段に走る筈はない。


「ひと月しても揺らぐ様子が無ければ戻って来い……いや、三週間……二週間で良い。お前の姿が見えぬと聯明が煩いからな」

「……兄様には相談せずに決めたのね」


 自分を本当の妹のように可愛がる聯明の拗ねる姿を想像してついため息が零れた。

 決定事項ならばもう従うしかなく、これ以上うだうだと言って疲れてしまうのも御免だ。


 ──でも、聖人と言われる蒼眞佳の動揺する姿って何だか面白そうね。


 奇異な光景につい興味をそそられてそれが見たくなっていた。一度持った好奇心には逆らえない。

 梓娟は「はいはい分かりました」と軽い返事をすると部屋を後にした。

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