白昼

市街地

白昼

 くろぐろと、濡れたような瞳があたしを上目遣いに見つめていた。さきほどまで机に伏せていた彼女は、頬に机の跡をつけたまま、血色のわるいくちびるを開いた。乱れた黒髪のひと房が、白い胸許で広がって、病的に浮き出た鎖骨を隠した。

「死のうよ。」

彼女は思い詰めたみたいな眼差しで、白い手をあたしのほうに差し出してきた。白くて、細くて、貧弱で、繊細な指だ。つまんだ指先のひややかさに、既に死んでいるんじゃないかだなんて、失礼なことを考えた。

「突然どうしたの? いーけど、どうやって、」

あたしは彼女の指をつまんだまま、もう片方の手で肩につきそうになっている髪をいじる。そろそろ切りに行こうと思っていたけれども、死ぬのなら、その必要も無い。正直なところ美容院は得意ではなかったため、彼女の提案は少しありがたかった。

「海にいこう、夏だし。飛び込んじゃおうよ。」

「いいね。夏っての、すこし忘れてたかもしれない。天気もいいし、行こっか。」

彼女はこくりと頷いて、席を立つ。妙に童女じみたしぐさだった。あたしも続いて立とうとすると、それを制するように彼女はあたしに覆いかぶさってきた。片手で髪を耳にかけながら、あたしにキスをする。ひんやりと湿った、やわらかいくちびるだった。


 ふたりぶん、切符を買ってのろのろと改札を出る。夏休みで構内はひどく混雑していて、彼女は俯いてあたしの指先を掴んでいた。黒髪がだらりと垂れ下がって、すこし、いやかなり不気味だ。

「今度にする?」

彼女はかぶりを振って、いっそうぎゅうとあたしの指を掴んだ。痛いくらいだった。そう力が強いわけではないけれど、深爪ぎみの、いかにも神経質そうな手は、蛇みたいにあたしの指に巻きついた。


 乗り込んだ車内はすし詰めだった。なかば抱き合うようにして、あたしたちは隅っこで小さくなっていた。彼女はやはり生きているか不安になるほど冷たくて、小さくて、華奢だった。

「体温ひくいね。」

「うん。低体温なの、」

彼女はなにが面白いのかくすくすと笑った。小さく漏れる息さえも冷たかった。この子は雪女なのかしら、もしかして、口外したら殺されたりするのかしら。いや、あたしは、あたしたちは、きょう死ぬのだった。じゃあ別に、なんでもいいか。彼女にならば、殺されるのだってきっと悪いことではないし。彼女のせいだろうか、あたしまで喉の奥から笑いが込み上げてくるようだった。平素あたしは明るい人間とはけっしていえないのだけれど、そのときばかりは、何が起こったとしても笑えるくらいに浮ついて、気分がよかった。

「あっためてあげようか、」

あたしが気障ったらしく言ってみせると、彼女はひとしきり笑ってから、あたしの首に腕を回した。そのまま抱き寄せられる。静かな声だ。耳元で、囁かれる。冷気だ。

「……そんなこと、誰にでもいうの。」

近づくといっそう、彼女は綺麗だった。肌理のこまかい肌が、強い夏の日差しに照らされていた。白い。それの連想させるところは、純潔だとか、潔白だとか。少なくとも、あたしにとっては。答えに代えて、あたしは彼女にちいさく口づけた。あたしの体温が移ったのか、さきほどよりはすこし温かった。


 降りた駅は古ぼけていて、潮風のためか錆も目だった。小さなアイスクリームの自販機はほとんど売り切れの赤いランプがひかっており、あたしたちは辛うじて残っていた、バニラのアイスクリームにチョコレートとキャラメルの練り込まれたものを、一つ買ってふたりで齧った。べっとりと、喉の奥に泥が堆積するみたいな甘さだった。それも砂糖いりの。彼女がもういらないと言うから、ひとりでほとんど食べたけれど、かなり苦戦した。彼女はまた、泡がはじけるような小さな声で笑っていた。

「あ。靴のままで来ちゃったね。ビーチサンダルとかもってる?」

「ううん。こんな予定、なかったもの。」

砂浜についてから、あたしたちは何をするでもなく、しゃがみ込んで日差しを反射する波間を見ていた。空は不気味なほど青くて、海は薄くらく濁っていた。あたしたちは沈黙する。そもそも彼女とは、友達でもなんでもなかったのだ。合う話題なんて見つけようもないし、話す気分にはならなかった。遊泳客たちのにぎやかな笑い声が遠くに聞こえた。彼女はもう海を眺めることに飽きたのか、砂浜を這う昼顔の一花を手折ってぼんやりと眺めている。

「そろそろ、帰ろっか。」

あたしが立ち上がると、彼女も無言のままにすっと立ち上がった。それからあたしたちは、ふたりで電車に乗り込んで、各々帰宅した。

 白昼夢みたいだった。靴にまとわりついた白砂だけが、あたしたち二人きりの時間が存在していたことを証明しているみたいだった。きっと生きているなかで、生きていくなかで、あたしにとっても、彼女にとっても、なにひとつ意味をもたないことだろうけれど。

 それから彼女とは一切話していないし、思えばあたしは、彼女の名前すら知らなかった。きっと、もう彼女と話すことは無いし、あのひややかなくちびるに触れることもない。彼女はただいままで通りに日々を過ごしていくのだろうし、あたしもきっとそうだろう。

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白昼 市街地 @shesuid

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