第38話
アトレイとは、無欲な男だった。
妻の女伯爵にウズラの卵より大きな指輪を婚約時代から嵌めさせた以外には、終生なにも望まない、無欲な男だった。
ヒルデガルドがそんな夫の重い愛を知るのは、もう少し先のことである。
「やあ。ウズラ令嬢」
廊下の先に見知った淡い金の髪を見て、ヒルデガルドは立ち止まった。
「珍しいね、番犬は?」
「アトレイは犬ではございませんわ」
「番犬って言葉で、真っ先に婚約者を思い浮かべたくせに」
嘗ての生では、甘く蕩かしてくれた婚約者だったクリスフォードも、他人となってみれば思いのほか面倒くさい男だった。
だがヒルデガルドは、生涯前世の夫を愛し抜いた。死に戻っても良いと思うほどに思いっきり愛したから、現世ではこんなふうに一歩離れた目線で見ることができるのだろう。
「クリスフォード様、ご機嫌よう」
「散々話しておいて今更挨拶?」
今世でのクリスフォードは皮肉屋さんである。
前もそうだったのだろうけど、妻であった時には一応手加減されていたのだろう。
クリスフォードは、妾の存在すら隠さない真っ当な夫であった。
ヒルデガルドがこの生に死に戻ってから既に一年が経っていた。
デヴュタントはアトレイをパートナーにして迎えた。その前に、アトレイとは正式に婚約を結んで、ウズラの卵より大きな指輪を贈られていた。
授業中での反応がいちいち大げさであったり、独り言が激しかったり、それでなくても他のご令嬢とは少しばかり毛色が違うヒルデガルドであったから、突然、ウズラ指輪を嵌めてきても、もう誰も可怪しなこととは思わなかった。
変わったとすれば、あだ名が「頷き令嬢」から「ウズラ令嬢」になったことくらいか。
「そんな大きなシトリン、あるんだね」
「ええ。婚約者の個人資産でしたの」
「全財産を投げうって君に貢いだんだ」
「まあ、そうなりますわね」
否定すればするだけクリスフォードは面白がるから、ヒルデガルドはなんでもかんでも肯定している。
「可怪しいな」
「?」
「思った
「なにを仰っているの?」
ヒルデガルドはそこで、首を傾げてとぼけて見せた。
そんなヒルデガルドを、クリスフォードは益々面白がるように見つめてくる。
「私の知ってる君とは、もう少し可愛げがあって健気で、冗談が通じて、それからもう少し恥じらいがあった」
「いつの誰と比べてらっしゃるの?寝言は寝て仰ってね」
「ほら、そういうところ」
この生では他人のままのクリスフォードとは、意外にも違った付き合いができている。
「それで、番犬は?」
「番犬番犬と失礼ですわね。領地に行っているのです。明日には戻ってきますけれど」
アトレイは昨日から、父に付いて領地に赴いている。ヒルデガルドに代わって、外向きの仕事を憶えてくれている。
「そんなことより、クリスフォード様」
「なに?改まって」
「何故、一般科へ?」
春からヒルデガルドとアトレイは、一般科から領地経営科へ学科を変えた。同時にクリスフォードは、領地経営科から一般科へ移っていた。
「ええ?君等と離れたかったからだよ」
「見えすいた嘘はお辞めになって」
クリスフォードは侯爵家の嫡男である。領地経営科には、彼がこれから付き合っていく貴族家の後継者が揃っている。
「必要ないからさ」
「え?」
「大学に進もうかと思ってね」
クリスフォードは、こんな廊下の真っ中で話すには重い話題を軽く明かした。
「ちょっと、ちょっと、ちょっと」
ヒルデガルドはクリスフォードの腕を掴んで、廊下の隅っこに移動した。
「滅多なことを仰ってはなりませんわ。傘下貴族の子女の皆様だっていらっしゃるのよ?」
「ああ、そこは大丈夫。内々に知らせてあるから」
「内々?」
クリスフォードはそこで、ヒルデガルドをじっと見つめた。まるで明日にでも別れがくるような眼差しである。
ヒルデガルドはそこで、あの胸を押さえて膝をついた、昏倒する直前の前世の夫を思い出してしまった。
「クリスフォード様。貴方、本当にどこかへ行っちゃうの?」
「君っていつもそうだ。なんでか胸を騒がせる。本当に面倒な人だよ」
クリスフォードの青い瞳が、ヒルデガルドの中に誰かを探すように小さく揺れた。
「帝国に行くよ。ヴィンセントの伝があるからね」
「侯爵家を留守になさるの?」
「弟がいる」
クリスフォードの弟は、ローレンと同い年。来年には学園に入学する。
「それに、まだ二年はこの国にいるよ」
クリスフォードの言葉は本当だった。
彼はどうやって一族を説き伏せたのか、後継を二歳年下の弟に譲って、学園を卒業すると、そのまま帝国大学に入学してしまった。
彼は医学の道に進んだ。
これまで高位貴族の後継として育ってきた彼が、なにを思って生き方をひっくり返したのかは、ヒルデガルドはわからないことだった。
彼が本国へ戻ってきたときにヒルデガルドが驚いたのは、彼の学んだ医療がローレンの身体にマッチしていたことだろう。
クリスフォードはローレンの主治医となった。
まるで病弱なローレンを救うように帰国したクリスフォード。天の定めた寿命とは変わらぬものだと思い込んでいたヒルデガルドは、そうではなかったことをクリスフォードから教えられた。
そしてクリスフォードもまた、今世で自分の生き方を選んだのだった。
ずっと後になって、ヒルデガルドは打ち明けられる。
それはこの死に戻りが、ヒルデガルドのためばかりでなくて、夫であったクリスフォードのためでもあったのだと実感させられることだった。
「ヒルデガルド。私にはきっと子が成せない」
その日、ローレンの診察を終えたクリスフォードは、なにを考えたのかそうヒルデガルドに打ち明けた。
「このまま妻を得たならきっと、彼女を苦しめることになる」
「調べたの?」
「いや、そう実感しただけだ」
「だったらそんな⋯⋯」
ヒルデガルドには、強く否定ができなかった。前の生で子を成せなかったのはヒルデガルドである。それで離縁を求める親族がいなかったわけではない。
クリスフォードがヘレンを求めたのは、彼女へ愛情を抱いた他に、後継を産んでほしかったのだろうとは、誰もが思うことだった。
だが結果は、ヘレンにも子が授かることはなかった。
「クリスフォード様、それを確かめるために医学を学ばれたの?」
「まあ、そればかりではないけどね。学園に入って直ぐに熱を出したんだ。それで学園を暫く休んだ。弟は領地の両親の下にいたから罹患しなかった」
クリスフォードはそのことを、両親にも報告したという。
「医師も使用人たちも、そこまで考えてはいなかった。勿論、両親も。でも自分の身体だからわかるんだよ。前となにかが変わってしまったって」
クリスフォードは、熱病の後遺症を感じ取ったのだろう。
「それでも希望を捨てられなくて、医師まで考え過ぎだと言うのだから、未来は変わらないと信じたかった」
「当然だわ」
感冒なら珍しいことではないだろう。全ての高熱が機能を奪うと言い切れない。
「君がアトレイと婚約して、それで吹っ切れた」
「ええ?私、関係ある?」
「なんだろう。君を他人に奪われたら、どうでもよく思えてね。なら賢い頭脳を活かしてみようと思ったのさ」
思っただけで後継を譲って、医師に転身する道を選ぶなんて、そうそうできないことだろう。
「ヴィンセントから帝国大学の話を聞いていたし、違う人生を生きてみたいとも思った」
「違う人生?」
なぜだか胸の鼓動を抑えられない。
この先を、聞いてはならないような気持ちになる。
「君とは別の人生、かな」
「クリスフォード様」
クリスフォードにも、前の思い出があるのだろうか。咄嗟に思ったことはそれだった。
「君はどこか懐かしいひとだったんだ。ヒルデガルド。そう何度も呼んだような気がしたんだ」
クリスフォードには、前の記憶はないようだった。だが彼もまた、魂の奥底になにかを抱えて今を生きているのだと、そう思わずにはいられなかった。
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