第2話 大きな声じゃなくっても
……居心地、良くないな。
「ねえねえ、昨日あれ見た? 新曲!」
「見た見た! 凄かったよね~」
アタシの席は教室の真ん中よりやや前、窓から数えて3番目のところ。その左後ろの窓際に女子が何人か集まっている。
いつも音楽番組の話ばかりしているグループ。
「なあ、今夜、経験値倍増イベだってさ」
「マジ?! よし9時にインするわ」
右斜め前には男子のグループ。話題はいつもゲームのこと。右後ろにもいくつかのグループがある。
そしてアタシはどのグループにも入っていない。だから一人で過ごす。それがいつもの昼休み。
別に、無視やいじめを受けている、とは思わない。仲良しじゃないから仲良しの行動をとらないだけ。誰にも悪意はない。
むしろ、今からアタシがどこかの輪に入ろうとすればお互いに気後れするだろう。
だからアタシからは何も言わないし、周りのグループの人たちもアタシに何も言ってこない。そして一人で過ごすのは、別にアタシだけじゃない。
入学してから1年半、この高校でずっと見てきた日常の風景だ。
2か月前の、夏休みが始まった頃。
アタシは中学で一緒だったヨミと遊ぶようになって、一度は高校をやめることを決意した。でもヨミと喧嘩して、その後、やっぱりちゃんと学校行こうと思えるようになった。
担任の、アンドーちゃんのおかげだった。
アンドーちゃんは別に、アタシに対して学校を続けるように諭したわけじゃない。そもそもアタシが学校やめようとしていたことすらアンドーちゃんは知らない。
アンドーちゃんはただ毎晩、ジョギングしてただけ。
でもそれが、もの凄く太っててお世辞にも走る姿が格好いいとは言えないアンドーちゃんが1ヶ月も走り続けていることが、アタシには凄いことに見えた。だからアタシもちゃんとしようって、一度はそう思えた。
何かを頑張ろう、って。
でも現実は何も変わらなかった。
だから、苦しい。
教室で仲間がいないからじゃない。家で親から、お金のことを散々聞かされるからだ。
——多佳子の塾にはねえ、うんとお金かかったのよお。
最初にそんなことを聞かされたのは、夏期講習が終わった翌日。つまり学校が始まる日の朝。
朝ご飯のとき、母親がアタシの顔を覗き込んで、突然そう言った。わざとらしく、「うんと」のところに抑揚をつけて、ニコニコした顔で。
アタシが、口に入れたものを噛んでいるときだった。
次はその日の夕方。学校から帰ってテレビを見ていたとき。
——多佳子の塾ねえ、このドラマに出てる料理より、ずうっと高かったのよお。
やっぱり、ニコニコした顔で言い出した。
不意打ちのように。
それ以来、塾の代金のことを何かにつけて話題に出されるようになった。
いつも唐突に。一日に何回も。
……嫌味で言っていたわけじゃないことは、はっきりわかる。そういう顔じゃない。
感じたのは、母親としての「誇り」。
この母親は、かかったお金の金額で、自分が立派な母親であることを示した気になっている。示せると思っている。その話でアタシがどんなに嫌な思いをしても。
だから絶対にやめない。
……一度だけ、そういう話はやめて欲しい、って伝えたことがあった。でも母親は、「な~んでえ~?」なんてわざとらしく素っ頓狂な声を上げて、相変わらず、「多佳子にはう~んとお金がかかったんだよ~」って繰り返すばかり。
横で聞いていた父親も、お前はそこまで親に恩があるんだぞと言わんばかりの得意顔になっていた。
最初は、言わせておけばいい、と思ってた。
でももう、毎日が苦痛。
塾はアタシが望んでのことじゃない。それなのに、アタシがお金を使わせたことになっている。
腹が立った。思わず叫びそうになったことがこの半月で何度もあった。
今朝もそうだ。
でも、そうしたら後がどうなるかは目に見えている。アタシが父親から怒鳴られるだけ。そうなれば……きっとアタシはヨミと遊んでいたころに戻って、もう、落ちるところまで落ちるだけだろう。
……アタシは。
この2人に対して、ちゃんと文句を言わなきゃいけないはずだ。
でも言えない。言うべき言葉が出てこない。我慢、するしかない。
だから今朝、アタシは朝ご飯を食べずに家を出た。ダイエットを始めた、と嘘をついて。
本当はお腹が空いていて、惨めな気持ちだったのに。
それでも玄関を出るとき、母親に言われた。「塾にお金かかったんだから、学校しっかり頑張ってね」。
学校。
アタシでも何かを頑張れる。一度はそう思って、続けようと思った。
でも、何も変わらない。アタシは相変わらず、親の満足の道具。学校にいる間だけが親のエゴから解放される時間。
そして今日も学校が終わる。
家に帰って、晩ご飯のとき、またいつもの、夏期講習に使ったお金の話になった。
◇
日曜日が、来た。
夏休みが開けてから何度目かの日曜日。
アタシは、塾があったほうとは反対側の街中に来ていた。市民ホールや図書館が並ぶ通りだ。
特に理由があるわけじゃない。ただ、家に居たくないだけ。そして昼間なら一人でも危なくない。
だからここで一日何もせずに過ごすのが、アタシの週末。
……だったんだけど。
「あれ、三木元か?」
「アンドーちゃ、先生?!」
空調が聞いている市民ホールで過ごそうと中に入って行ったら、アンドーちゃんと出くわした。いつも以上にきっちり着こなしているせいで、最初誰か分からなかった。
……というか、異常に堅苦しい恰好をしている。シャツもネクタイも真新しくて、スーツもアイロンの跡がくっきり。そして髪も何かで固めている。
整え過ぎて逆に不格好になるくらいに。
でも、その理由はすぐに分かった。
「街コン会場はこちら」。そう書かれた立て看板がロビーに置かれていたからだ。
アンドーちゃんは照れる様子もなく、堂々と言った。
「俺もそろそろ、こういうこと真剣に考えようと思っててな」
街コン。結婚を考えている人たちのための、お見合いパーティー。
……アンドーちゃんがダイエットしていた理由、こういうことだったんだ。
ずっと毎日、辛いジョギングをしてきたアンドーちゃん。その努力を知っているアタシは、からかったり茶化したりする気にはならなかった。
上手く行くと良いな。素直にそう思う。
だからアタシは邪魔にならないように、今日は別の場所で過ごすことにした。
それなのに。
数時間後、アタシはまたアンドーちゃんに出くわしてしまう。
一人カラオケで時間を潰して、トイレからブースに戻るときだった。街コン参加者の人達が二次会会場として、後から同じお店を選んでしまったらしい。
角の先から話し声が聞こえて、アンドーちゃんの声だと分かって、気付いた。
そして。
「すみません、連絡先、交換して頂けませんか?」
咄嗟に角に隠れたアタシの耳に、アンドーちゃんの声でそう聞こえた。相手が廊下に出たときなら1対1で話せる、と思ったのだろう。
少し震えた、勇気を絞り出すような声だった。
聞いちゃいけない、と思った。でも、足が動かなかった。
アンドーちゃん、今までずっとダイエット頑張って来たんだ。今も頑張ってる。報われて欲しい。
そして相手の回答は……
「私、貴方に興味ありません」
これだけ。
「ごめんなさい」の一言もない。
お前ごときが自分に話しかけるな、と言わんばかりの低いトーン。
その人は廊下を進み、アタシのいる場所を通り過ぎていく。角を曲がるときにアンドーちゃんを横目で見ないよう、顔を斜めの方向に向けたままにして。
アタシのことも邪魔そうに一瞥して。
今の高校のとは違う、小学校のころアタシが受けていた無視と同じような顔つきで。
……おい、ちょっと、待てよ。
さっさと通り過ぎようとする背中が目に入る。
身勝手なその姿に腹が立ってきた。
……アンドーちゃん、今日のために頑張ってたんだぞ。今日のために、少しでも痩せようとして、長い距離を毎日走って。今日の格好だって、不格好だけど、頑張ってるのは見ればわかるのに。
それなのになんだ、少しくらい話聞けよ。見ようともしないって何だよ!
黙って通り過ぎようとしてんじゃねーよ! 待てよ!
次々に浮かんでくる、怒りの言葉。
アタシはその人に後ろから走り寄って、腕を掴んで振り向かせて、思いつく限りに文句をぶつけることが……できなかった。
ついさっき、アンドーちゃんが理不尽な目に遭っていたのに。
ここでアタシが何か言うほうがおかしい、そんな理屈のほうが先に立って。まるで、アタシがこの人の態度を黙認しているみたいに。
強く、文句を言えなくて。
「ちょ、っと、待って、ください」
言えたのは、これだけ。
絞り出して言えたのが、これだけ。
相手の人は何も言わず、怪訝な顔でアタシを見る。
アタシは何を言っていいか分からなくなった。
やがて相手はつまらなそうに振り返り、先へ進もうとする。アタシが何も言えないままに。
「待って!」
アタシは思わず叫んだ。相手の足は再び、止まる。
「何よ? あなた誰?」
「さっきの……あんまりじゃ、ないですか?」
「はあ?」
「あんまり、じゃ、ないですか?!」
自分でももう、何を言ってるのか分からなくなった。視界がぐるぐる回る。
相手は面倒くさそうに舌打ちして、何も言わずに廊下を進んで行った。アタシのこと、無視したほうが良いガキ、とでも思ったのだろう。
そして。
「三木元、か?」
一人廊下に取り残されて、一体何をしているんだ、と自分で思っていたところに、アンドーちゃんから声を掛けられた。
◇
その後。
落ち着きを取り戻したアタシは会計を済ませて、アンドーちゃんは二次会に来ていた人達に挨拶をして、カラオケボックスを出た。
そして近くの喫茶店に入り、アタシは事情を説明することになる。カラオケボックスにいたのが偶然だったこととか、あの人の態度に腹が立ったこととか。
「……そっか。ありがとな」
アンドーちゃんはそう言ってくれた。何が「ありがと」なのかよく分からなかった。
例の相手は、廊下の先、要するにトイレから戻った後、まだ廊下にいたアタシとアンドーちゃんには目を合わせようともせずにブースに向かって、ドアを開けるや否や愛想のいい笑顔を振り撒いていた。
そんな冷たい女に、アタシは何も言えてない。
アタシは……弱い。
それから少し、話をした。
アンドーちゃんはまた別の街コンに応募するらしい。上手く行くまで何度も続けるのだそうだ。
強いな。
喫茶店のジュース代は先に席を立ったアンドーちゃんが持ってくれて、せっかくだからゆっくり味わっていけって言われて、アタシはしばらくそのお店の人たちを眺めて、家に帰った。
◇
月曜日。
アタシは朝、ご飯を食べて家を出た。母親は「ダイエットはもうやめたの?」なんて言っていたけど、適当に返した。
ちなみに今朝は、塾のお金のことは言われていない。
昨日の夜、いつものように言われたとき、「そんなにお金のことばかり話して何が言いたいの?」って聞き返したら、言葉に詰まってた。横で聞いていた父親も。
で、それっきり。
そしていつも通りの昼休みが終わり、午後の最初の授業が終わる。
次の授業は美術室だった。だからみんな教室を出て、廊下を進む。
皆、小脇に美術の道具を挟んで。
全員がまとまって移動するには狭い廊下。
ふと、集団の先頭のほうを進む男子から教科書が滑り落ちた。いつも昼休み、どのグループにも入っていない男子。確か名前は、
そして小関君の教科書を拾う人は一人もいない。気付いている人もいるはずなのに。
仲良しじゃないから仲良しの行動をとらないだけ。誰にも悪意はない。それがこの高校の日常。
落ちた教科書を拾ってあげるという行動も、それ。
だけど。
アタシは何故か皆に冷たさを感じて立ち止まる。皆の足は止まらない。
……アタシは。
「ねえ、これ、落したよ」
教科書を拾い、先頭まで小走りに駆けて、小関君に声を掛けた。
小関君は驚いて立ち止まる。驚いて当然だろう。こういうこと、この高校じゃあまりない。仲良しじゃなければ関心を持たないのが普通。
廊下に止まったままのアタシたちを皆が追い越していく。
「あ……ありがと」
……別にこの程度のことで次の日から昼休みのグループが一つ増えるなんてことはないし、アタシもそういうのは望んでいない。冷たいと感じた皆に対して何か仕返しをしたわけでもない。
それでもアタシは、今までがんじがらめだったものが少しだけ解けたような、不思議な感覚を味わっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます