雨のひとりごと

しののめ征

第1話

 雨が好きな人はいるだろうか。


 おそらくはいるだろうが、少なくとも僕はそうではない。雨が降ると、ひどく憂鬱になるし、頭痛が起きることもある。僕は雨が好きではない。


 だが今日は残念なことに、空が嫌がらせをするように、ぽたぽたとそれを降らせてくる。


 ああ、気が重い。

 ああ、体も重い。


 頬をテーブルに乗せ、手足を椅子からだらりと投げ出す。全身の力を放り捨てた僕は、まるで溶けかけたチョコレートのようだ。


 半分溶けた片手をなんとか上げ、スマホを持つ。テーブルに突っ伏しながら画面を眺めると、僕はニュースアプリを立ち上げた。

 別に見たいものがあったわけではない。何となく、何となくだ。周りの人間と話を合わせるために、いつもこまめに見ているのだ。


 画面をスワイプすると、次から次へと文字が目を流れていく。事件や、事故、ありとあらゆる出来事が他人事で、この世の事に思えない。

 全ての事がくだらない。


 ……ぽつぽつ。


 アパートの屋根を、雨が叩いては流れ落ちる。じっとりと湿気を含んだ空気が部屋中を満たし、肌を過剰に潤わせる。

 カチカチと鳴る時計の秒針は、雨音を煽っているようだ。


 もう限界だ!

 憂鬱過ぎる!


 僕はむくりとテーブルから飛び起き鍵だけを持つと、サンダルで外に飛び出した。傘も、レインコートも無い。降りしきる雨の中へ、僕は躍り出た。


 雨で立ち上った土の匂いが鼻をつく。ゆるいシャワーのような冷たい雨が、僕の服を肌にぺたりと張り付かせ、滑り落ちていく。

 サンダルの中には雨と泥が入り込み、ぐちゃぐちゃと音を立てる。子供の頃にやった泥遊びのように、水に、土に塗れる。


 僕は泥で滑るサンダルで、その場をくるりと回った。

 もし僕が子供だったのなら、母親がいたのなら、「やめなさい」と怒られただろう。だが僕を止める者は誰もいない。

 僕を止めることが出来るのは、僕だけだ。


 ──ぽつぽつ、ぽつぽつ。


 雨音は、リズムを刻んでいるようだった。


 ちょっとした幼い悪戯心が湧いた僕は、雨をその身に受けながら、そのリズムに合わせて踊ってみることにした。

 もちろんダンスなど習ったことはない。雨の音に合わせて手を、腕を、足をしならせ、思うがままに動かす。もつれそうになりながら、衝動に身を任せて踊る。

 手も足もバラバラだ。とても人に見せられたものではない。それでも心の底から湧き上がる、熱いものが僕をそうさせる。


 雨はもはや演奏であり、歓声であり、拍手だ。


 少し胸が上下する。頬に熱を感じる。僕は、今までにない奇妙な高揚感を感じている。なんて愉快なんだろう! 雨がこんなに心地良いとは!


 雫を撒き散らしながらひとしきり踊った僕は、天に向かって会釈した。

 仰ぐ僕の顔を、少し大きい雨粒がなぞる。まるで空が僕の踊りに褒美をくれたようだった。


 僕は喜びに満ちた笑みを浮かべると、自分の部屋へと続く階段を上る。少し軋む玄関の扉を閉めると、雨音が遠ざかった。きっと僕の踊りが終わったことを嘆いて、静かに土を叩いているのだろう。


 観客のアンコールに応えない僕は、服を脱がないまま泥だらけの足で、狭いタイル張りの浴室へと向かった。ぬるめの湯は、僕の高鳴りをゆっくりと鎮めていく。足に付いていた泥が、別れの言葉を告げるようにさらさらと排水口へ流れていった。


 体と一体になっていた服を、剥がすように勢い良く脱ぐ。そうして僕は、シャワーを浴びながらひとりごとを言うんだ。


「雨も悪くないな」って。

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雨のひとりごと しののめ征 @sinonome_sei

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