第一部 第24話 悪夢と現実
仰向けの体勢から、男の太鼓腹を蹴り飛ばした。仰け反らせることに成功はしたものの、相手はニヤニヤと下卑た笑いを浮かべていて、怯んだ様子はない。むしろ、楽しんでいるようだ。中学生の抵抗など、大人からしてみれば蚊に刺されたようなものなのだろう。ましてや、何を飲まされたものか、頭の芯が痺れている状態では抵抗したところでたかが知れていた。
「いやッ!来ないで、くるな!」
「テレビで観るツンケンした感じよりも、弱々しくてそそるねえ」
(一言一句、覚えてる。言葉だと思いたくない、吐き気のする音。忘れたいのに、忘れることができない)
逃げらるわけがないと高をくくっているからか、男の口ぶりには余裕が滲んでいた。緩慢な動きで近付いてくる男に背を向けて走った。
裸のまま、トイレに逃げ込んだ。男が慌てて追いかけてくるが間一髪、ドアを閉めたはいいものの、驚いた。鍵がない。ゆっくりとレバーハンドルが下がっていく。冗談ではない。しゃがみ込むと、最後の生命線を両手で押し上げた。必死だった。それでも男は諦めず、ドアの向こうで息む声が聞こえる。
呼吸が浅く、早くなっていた。まずい。中学に上がってから、時折やってくる過呼吸の兆候だった。強いストレスに、精神が音を上げだしたのだ。
「もう、やめて。やめてよおおお。帰してよぉっ!」
「おーいモモナちゃん、ドアを開けてくれないかな。このままじゃ困るのは、君のママだよ?このことは、ママも知っていることなんだから。」
「ウソ!そんなのウソよ!」
「本当だよ。ヒロシ・シバタ、君のママのお気に入りだろう?うちの事務所に所属していてね。君と交換することに同意してくれたんだ。今頃はママもお楽しみの真っ最中というわけさ。だから、君も楽しまないと損だよ?大丈夫、おぢさん、これでも君みたいな女の子の扱いには慣れているから安心して」
確かに、朝からママは落ち着きがなかった。ベッドに服を並べては、これじゃない、ヒロシくんは、こっちのほうがいいかしら、と唸っていた。何をしているのだろうと首を傾げて見ていたら、服選びを手伝わされた。まさか、生贄に差し出そうという娘に、男との逢瀬の手伝いをさせていたとは。
「違う!そんなこと、あるわけない!」
そう叫んでも頭の中が沸騰したように熱くなったのは、男の言っていることが本当だと心のどこかで認めたからだろう。あの母親なら、やりかねない。
父親に続いて、母にまで捨てられたくない一心で、嫌だった芸能活動の範囲を広げて勤勉に励んできた。子ども服のモデル、子役エキストラ、バックダンサー、そしてアイドル。自分の外見がこうでなかったなら、母の思惑と関係なく数多の志望者の中に埋もれていたことだろう。何度、遺伝子を呪ったことか。
本当は、普通に学校へ行きたかった。自分のしたいことを諦めてまで、母に気に入られようとしてきた、その結果が、これだった。裏切りではない。最初から母の欲求を満たすための道具としか、見られていなかったのだ。
落胆し、悲嘆にくれ、絶望した。諦念に包まれ、目を瞑る。長い睫毛の間から、大粒の涙が零れ落ちた。
手の力が緩むと、ゆっくりとドアが軋みながら開いていった。モモナには、その音が地獄の門が開くときのものに感じられた。同時に遠くから聞こえてきた、場違いに明るいメロディー。日付が変わったアラーム音。
そうだ、セットしていたのを忘れていた。今日は、アタシの十四歳の誕生日。祝ってもらうための日。感謝を伝える日。そのはずなのに、今のアタシはどうだ。もう、疲れた。ことが終わったら、死のう。生まれた日に死ぬのも、変わっていていいじゃないか。そうと決めたら、早く済ませてしまおう。目を閉じて下を向いた。
『他人に道を決められるまま、死ぬのか。なんと非力で脆弱。なんと無力で羸弱。あぁ弱い、弱い』
声が聞こえた。あの男の声ではないことは確かだが、金属を擦り合わせたような気味の悪い声だったが、なんとなく女性のもののように聞こえた。
「ハァ?!もういっぺん言ってみなさいよ!人の気も知らないで!」
無責任な批評に溜め込んだフラストレーションが爆発し、叫びとともに赤金の睫毛に縁どられた瞼を上げると、そこはどことも知れぬホテルの一室ではなく、目の前に広がっているのは一面の荒野だった。赤い地面に、岩。太陽の代わりに炎の球がふたつ浮いていて、吹きすさぶ風が熱かった。どこからともなく、女の悲鳴と男の怨嗟に満ちた声が聞こえてくる。
「なに、これ。どこなの?ねえ、アタシはどうしちゃったの?」
返事はない。周囲の叫び声が大きくなり、近づいてくる。裸の胸を抱くようにして座り込んだ。ごつごつと赤く乾いた岩がお尻に痛かった。
「そうか。アタシ、死んだのね、過呼吸で。ここが地獄か。やだな、きっとパパもママも、地獄に落ちるだろうし。こんなところにいたら、また顔を見なくちゃいけないじゃない」
(バカね。過呼吸で人間は死なないわよ。ほんの数か月前のことなのに、アタシってこんなに幼かったのかしら)
笑い声があたりに響いて、思わず耳を抑えた。さっき小馬鹿にしてきた、神経に障る声と似ていた。
「もお、うるさいわね。頭に響くじゃないの。あーあ、死んじゃったか。どうせなら、死ぬ前に、普通の女の子みたいな生活、してみたかったな。毎日学校に行って、部活して。好きな人ができて。漫画みたいな恋をして。一緒に受験して。喧嘩して、仲直りして。キス。それから就職して、結婚して。生まれてきた子どもを愛情いっぱいに育てるの。パパのお嫁さんはアタシだから、娘ちゃんにはあげないわよって喧嘩したりして・・・。うぐっ、ぐうううう・・・うあああっ!」
涙が溢れた。真一文字に結んだ唇が震えて、端から涎が溢れて垂れ落ちたが、気にはならなかった。
(あーあ、せっかくの可愛い顔が台無しじゃない。洟まで出しちゃって。それじゃ、運命の人に振り向いてもらえないわよ。でも、ま、アタシたちには無縁な話か。それから先に言っとくわよ。アンタが、アタシが、自分を殺してママの言うこと聞いてきたからそんな目に遭うのよ)
「なんでっ!なんでアタシがこんな目に遭わなきゃいけないのよ!アタシがなにしたっていうのよ!なにか悪いことした?なんでアタシが死ぬのよ?地獄に落ちるのよ?死ぬのはアタシじゃない、アイツらよ!死ね、化物ども!ううん、殺してやる!おまえらを殺して、それから死んでやる!思いどおりになってたまるか!アタシのことは、アタシが決める!そのためなら、おまえら以上の化物にだってなってやる!」
髪を掻きむしりながら、絶叫した。爪の間に血に塗れた髪が挟まり、興奮のあまり噛み締めた内頬から血が溢れ、口中に鉄の味が充満した。
生まれて初めて上げる怒号。心の奥から湧き上がるその怒りに呼応するように、またもあの声が耳に、頭に飛び込んできた。
『気に入ったぞよ、娘子。そなたの怒り、恨み。何たる美味か。褒美をとらす。自らを由とする、よすがとならん』
足先から、炎が上がってきた。熱くはない。この炎が全身を包んだ時、自分は生まれ変わるのだ。なぜか、それが分かったから、怖くはなかった。胸まで燃え上がってきた炎を抱きしめ、目を閉じた。
焦げ臭いにおいで我に返った。炎と煙がドアの隙間から流れ込んでくる。恐るおそるトイレのドアを開けると、黒焦げになった人間が倒れ、部屋中の壁紙が燃えていた。スプリンクラーは作動していたが炎を消しきれず、火の手は勢いを増していく。
ベッドからシーツを剥ぎ取って身体に巻き付けると、部屋を飛び出た。携帯電話や財布を探して持っていく気も、時間もなかった。不思議なことに、炎は触れても熱さを感じず、シーツにも燃え移らなかった。叫喚が竜巻のように渦巻くホテルの廊下を、わき目もふらず駆け抜けた。
消防車のサイレンが鳴り響く中、ビルの間を裸足で歩いた。表通りは大変な騒ぎになっていた。まだ悲鳴と怒号が聞こえていた。狭い路地まで黒煙が流れ込み、見上げれば雲が赤々と照らし出されていた。
「なによ。ここも、地獄と変わらないじゃない」
(本当、そうね。この後のことも含めて、ね。人が墜ちる地獄と、人が作った地獄って違いしかない)
転がっていた死体は、あの中年男だろう。襲われたとはいえ、人を殺したのだ。殺した記憶はないが、殺してやると誓った相手が死んでいたのだから、自分が殺したのと同じことだと思った。そうであってほしいという願望でもあった。
ホテルの火勢は猛烈だったから、関係のない人に怪我をさせたかもしれない。少し心は傷んだが、警察に捕まれば、あの家に連れ戻されてしまう。だが、足の裏が痛くて。とても遠くまで逃げることはできそうもなかった。途方に暮れていると、小さな公園が目に留まった。
人目を避ける必要があったから、土管を組み合わせた遊具の中に潜り込んだ。どうせ長くはここにいられない。だが、行く当てもない。明日の朝早く起きて、また歩こう。そう決めて寝転がると、手にコンビニの袋を提げた若い男に声をかけられた。
「あれ、先客?ここ、俺がいつも酒飲む場所なんだけどって、きみ、どうしたの?酷い恰好じゃないか。誰かに襲われたのか。怪我、してない?」
細身の、ハンサムな男だった。服装から勤め人のようだが、無精ひげを生やして長めの髪を後ろで結んでいて、少し胡散臭さも感じさせたが、自分の身体に視線を這わせることもなく、真っすぐに目を見て話してくれたことに好印象を持った。自分が、ピーチスマッシュのモモナだとも気づいていないようだ。あ
「お腹空いてない?親御さんは?あ、日本語、分かる?ア、アイキャント、スピーク、イングリッシュ、ええと」
慌てる様子がおかしかった。思わず笑顔になる。笑う姿を見て、安心したのか、男も笑顔になった。爽やかな笑顔だった。
「アタシ、日本語話せるよ。日本人だもん。親に外国の血が入ってるだけで、ずっと日本で育ったから」
男は、深く事情を聞こうとはせず、ここにいては危険なので自分の家が近くだから、一緒にご飯を食べよう、とビニール袋を持ち上げて見せた。これからどうするのか決めてくれることが頼もしく思えて、笑顔で頷いた。
(いま、思い出しても吐き気がする。なんてバカなんだろう、このときのアタシ。見た目や肩書でアタシを見ていない?そりゃそうよ、欲望の捌け口としてしか見てないんだから)
テレビを見ながら、男と一緒にご飯を食べた。誰かと話しながら食事をとるのは久しぶりだった。嫌なことだらけの人生だけれど、誕生日に神様が運命の王子様を連れてきてくれたのかもしれない。生きるって、悪くないな。そんなことを思った。
幻想はすぐに打ち砕かれた。
「キミ、お風呂入ってきなよ。なんか焦げ臭い匂いするからさ。キレイになったらヤろう」
「え?」
「えって、セックスだよ。エッチ。そりゃ当然するでしょ、それとも、一緒にお風呂入る?でも、うち、風呂狭いからなあ。それか、ラブホ行く?」
俯いて自分の爪先を見つめた。誰に聞かせるでもなく呟いたが、きっと、あの耳障りな声の持ち主には届くはずだ。
「やっぱり、地獄に神様も王子様も、いるわけないんだ。どいつもこいつも、アタシを好きにできると思ってやがる。アタシが黙っていうこと聞いてるから?アタシが弱いから?ふざけんじゃないわよ。アタシは・・・強い。だって、アタシは化物なんだから」
落胆が、怒りへと変わっていった。もう、希望など持たない。自分は、地獄に堕ちたのだ。
身体から噴き出した炎が渦巻き、家具へ燃え移っていくさまを愛おしく見つめた。腰を抜かした男が悲鳴を上げていたが、憐憫や同情は湧かなかった。
この後、ガブリエレがやってきて、アパート火災の中心で座り込む自分を助け出してくれる。夢の中で事実を追体験しているのだから当たり前ではあるが、お決まりのパターンだ。悪夢は、いつもそこで終わる。
一陣の風が、炎の一部を取り払った。背中越しに影と足音が近づいてくる。この次は、声をかけられるのだ。一言一句違わず覚えている。
「まったく。大丈夫?辛かったわね、じゃないわよ。ガビー、もうちょっと早く来てよね。そうしたらこんな夢に悩まされることもないのに」
「モモナ」
「え?」
ガブリエレではない。聞いた覚えのある声。まだ、幼さを残した、少年の声だ。
「大丈夫だよ、モモナ。一緒にいこう」
「なんで、なんでオマエがっ!」
ベッドから跳ね起きた。息が上がっている。全身、汗まみれだった。頭を抱えて、呼吸を整える。猫起きルーティンなど、とてもする気分ではなかった。
「三か月ぶりくらいか。嫌な夢」
久しぶりの悪夢だった。一時期は、毎夜、うなされたものだから、「ああ、またか」とかえって免疫がついていたのだが、久しぶりとなると参るものらしい。
「これも、あのバカのせいよ。あんなやつ、アイツのせいで」
シンは、《教会》から離脱したという話を聞いたのは、もう五日前のことだ。自分に気を遣ったのか、ガブリエレはシンが出て行ってから、その事実を隊員たちに伝えた。もっとも、事前に聞いたとしても、引き留める気などモモナには毛頭なかったが。
あの日、シンへ暴行を働いた理由を問われても、絶対に答えなかった。ただ、《ゼラチナス・キューブ》の体内に取り込まれて、隊服のあちこちが溶け落ちていたことや、自分の顔が涙で濡れていたこと。そしてシンが上半身裸だったことで、下卑た推測をした隊員がいたようだ。
なにしろ、真っ暗闇に健康な男子中学生と、弱った女子中学生アイドルの組み合わせだ。間違いが起こっても不思議ではない。シンのために否定する気にはならなかったし、それをしたら、本当の理由を言わなくてはならなくなる。だから、好きにさせておいた。
それは、可哀想な性被害者として見られる屈辱を受け入れたことにほかならないが、どうせ汚された身体だ。相手と時期は違えど、事実なのだから気にならなかった。
水を浴びて、汗を洗い流そう。バスルームへ向かう。同居人の少女は今日も仕事らしく、既に部屋にはいなかった。彼女は、突然の幼馴染の出奔をどう思っているのだろうか。
シャワーをつかってから食事処に足を運ぶと、厨房でヒトミが忙しく立ち働いていた。ピークタイムで混雑しており、話しかけるのは躊躇われた。そもそも、まともに会話になるとも思えない。
あまり気乗りしなかったが、適当に料理をトレイに載せた。この数日、料理の味がよく分からず、食欲が湧かないのだ。残してしまうから、大盛りは断っているのだが、それでも食べきれない。
胃腸の不調だとガブリエレに訴えて《癒し》を要求したが、姉のような副長は寂しそうな表情で首を横に振り、応じてくれなかった。理由を聞いても答えてくれないことに腹が立った。
ジュリーがいうには、精神的ショックで味覚障害になることがあるらしい。「そのうち治るからよ、忘れるんだ」などど訳知り顔で頭を撫でられた。突然のことで反応できなかったが、ヤンキー女の人が変わったような態度が気持ち悪かった。
手近の小上がりに座って砂を噛んでいるような味のする料理を流し込む。手に持った椀の端から、座卓を挟んだ反対側をちらりと眺めた。食事が早く済むから、時間が有効に使えていい。そう自分に言い聞かせて箸を置いたちょうどそのとき、館内放送を知らせるチャイムが流れた。間の抜けた音に続いて、ケイの声が響く。
「えぇ~、第十三使徒隊の自称超美少女、《竜炎》のモモナさん。作戦本部でケイ先生がお呼びです。時間ができ次第、出頭してください。繰り返します。第十三使徒隊の自称誰もが振り返るナイスバディ、《竜炎》のモモナさん。一刻も早く作戦本部に来るんだ」
「あのヘンタイ、部屋ごと吹っ飛ばしてやろうかしら」
周りの席からの視線と囁き声に耐えながら、トレイを手に立ち上がった。呼ばれたから仕方ない。そう自分に言い聞かせて、食べ残した罪悪感を誤魔化した。
「おや、モモナさん、早かったですねえ。朝食はもう食べられましたか?」
「ハンッ!ちょうど食べてるときに間抜けな放送がかかったから、急いで来たのよ。消化不良になったら、どう責任取ってくれるわけ?」
「おお、それは失礼。ですが、感心です。知っていますか、周公旦を。彼は来客があると」
「御託はいいから。どう見ても欧州人のアンタに中国の故事を教わりたくないわ。それに、アタシは呼ばれたほうでしょーが。用件を言いなさいよ、用件を」
薄暗い作戦本部室に、珍しく《神人》が同席していた。モモナは、彼の能面のような顔が嫌いだった。今も鏡のような目で、こちらをじっと見ていた。何も言われていないのに、瞳に映る自分の顔が責めているように見えるからだ。早く、この場から離れたかった。
「ええ、そうですね。実は、言いにくいのですが、あなたとの間にある争いを調停してほしいという申し立てがありましてね。事実確認と受理すべきかどうか、あなたの意見を聴取したくてお呼びしたんですよ」
「ハァ?調停って、あの八百長の?」
「ええ、そうです。ここで問題です。申し立て人は誰でしょうか?三択問題です」
ペースに呑まれてはいけない。この広報官兼参謀と話すときは、調子に乗る前に遮ることが肝要だ。相手の話は最後まで聞きましょう?そんな礼儀は、《運命の日》に置いてきた。
「おおかた、十一番のどいつかでしょ。アタシに《ニードルフォーク》を横取りされた腹いせなんだろうけど、お生憎様。付き合う気ないわ。あんとき入ったポイント、あんたたちに返すから、適当に処理しといて。それでも納得できないなら、模擬戦、やってやるけど・・・。補充要員、準備するの面倒でしょ」
愛想よく笑うケイが差し出した書面を横目で見た。調停申立書という見出しがついている。まるで役所だ。物資が不足していると締め付けるくせに、こういうことに惜しみなく紙を使うのだから反発を呼ぶのだ。
「それにしても、あれからどんだけ日が経つと思ってんのよ。喧嘩売るかどうか悩むくらいなら、最初からやめとけってーのよ」
紙片を手に取ったが、毛筆で書かれている上に達筆だった。いまどき、古風なヤツもいたものだ。なんとか読み取ろうと眉根を寄せて漢字と睨めっこした。読み進むにつれ、柳眉が逆立っていく。奥歯がぎしりと音を立てて軋んだ。
「なによ、コレ。どういうこと?アイツ、いつここに来たのよ!」
ケイの胸倉を掴んで前後に激しく揺すった。返事がないことに苛立つと、大袈裟に白目を剥き、口の端から舌をはみ出させた参謀から投げ捨てるように手を離した。キャスター付きの椅子が音を立てて壁に激突し、ケイのきれいに撫でつけられた頭髪が垂れ落ちた。《神人》は目で追うだけで右腕を心配することもなければ、モモナの狼藉を叱責することもしなかった。
「いたた・・・。ひどいですよ、《竜炎》さん。二時間かけてセットした頭が台無しです。で、アイツとは?」
「しらばっくれてんじゃないってーの!シンよ。シン・ミカグラ!いつ来たのか、言いなさいよ。ついでに、今、どこにいるのかも知ってたら白状したほうが身のためよ。その作りものみたいな髪の毛、チリチリになったらセットできないでしょ?」
「ああ、あの弱虫クンですか。さて、どこにいるのでしょうねえ。元気でやっていればいいのですが」
モモナの瞳孔が縦長に変容し、唇の端から鋭い牙が覗くのを認めたケイが慌てて手を振った。どうせ、これも演技だ。道化に合わせてはいけないと分かっていても、怒りで震える身体を止められなかった。
「本当ですってば。申立書の届出人の欄を見てくださいよ。書いてあるでしょ。古くさくて加齢臭のする名前が。ファン・リューシュイって」
目を皿にして書面の記入欄をひとつずつ確認していくと、確かに書いてあった。あのジジイは、なんでこんなものを書いたのだろうか。本人の意志か、それとも書かされたのか。モモナは考えることをやめた。
「ハンッ、面白いじゃない。あのジジイ。とっ捕まえて全部吐かせてやる。そうと決まったらこんな辛気臭いとこにいらんない。アタシ、もう行くわ」
椅子を蹴るようにいて立ち上がると、ふたりの反応を気にすることなくドアへ向かった。とりあえず、秘密基地へ行こう。ガブリエレなら、使い魔たちから聞いて、何かを知っている筈だ。
「あっ、ちょっと待ってください。相手の主張が正しいか、まだ確認できてませんよ。要求についても確認してもらわないと。調停申し立てにかかる判断は、私か《神人》殿しか権限を持っていないのです。なおざりにするわけにはいきません。それくらい、大事なことなんですよ」
「あー、うっざいわねえ。いいわ」
「いいって、何に対することで、どう、いいんですか?ちゃんと教えてくれないと。おぢさん困っちゃうん」
振り返ったモモナがケイの事務机に拳を叩きつけた。スチール製の天板がVの字に折れ、白い煙が上がる。引き出しの中の書類が燻っていた。対照的に、炎を纏った右拳をケイの眼前に突き付けるモモナの目は、氷のように冷たかった。
「模擬戦、やってやろうって言ってんのよ。その代わり、八百長なんかじゃないわ。ガチもガチの殺し合いをしてやろうじゃないの」
《神人》が差し出した水差しを傾け机の火種を消していたケイが、立てた人差し指を左右に振る。大きくため息をついた。
「モモナさん、放火は大罪ですよ。今は消防士なんていないんですから。それと、この調停が成立したなら、八百長はありえません。あなたの意志とは関係なく、ね」
珍しく、ケイが笑っていなかった。普段は、時と場所を選ばず笑顔でいることを不気味に感じていたのだが、このお調子者が真剣な顔つきをしているほうが余程、不気味だと気付かされた。
「ハァ?どういうことよ。思わせぶりな態度してんじゃないってーの」
「あなた、さっき申立書を手に取ってたじゃないですか。書類はちゃんと読む癖をつけておかないと、将来、健康器具とか壺とか買わされちゃいますよ。おぢさんは、あなたたちみたいに、ちゃんと親御さんに教育されていない若人の行く末が心配です」
いつものふざけた男に戻ったケイの手から申立書をひったくり、達筆すぎてかえって読みづらい文字を追う。「係争の内容」欄。そこを読んだモモナは、ケイの言葉を理解した。
「アイツ、舐めた真似しやがって。ぶっ飛ばしてやるわ」
怒りに身を震わせるモモナだったが、その目に涙が溜まっていく。表面張力の限界を超えて涙滴に変じる前に、再びドアに向かって歩き出した。
「モモナさん、その条件で模擬戦を開催する。それでいいんですね?」
大きく息を吸い、心を沈めるといつもの調子で言い放った。申立書を丸めると、肩越しにケイへ放り投げた。
「上等よ、やってやるわ。ただ勝つだけじゃ終わらせない。最悪の形でこのアタシに挑んだこと、後悔させてやるわ」
モモナの言葉を聞いて満足そうに頷いたケイは、壊れた机からごそごそと印鑑を取り出し、まるまった書類の皺を伸ばすと高らかに宣言した。
「それでは、《竜炎》のモモナの自由を賭けた模擬戦を三日後に行います」
暗い室内に響く、承認のスタンプが書類へ押される音を背中で聞きながら、モモナはドアノブに手をかけた。
(続く)
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