第2話 こんにちは異世界!<後編>
風船を割ったかのように、真っ白だった世界が弾け別の景色が飛び込んでくる。
「へっ!?」
現実の認識が上手くいかず、思わず喉から漏れたのは間の抜けた声。
白い世界から解放されたかと思えば、放り出されたのは青い空のど真ん中だ。びゅうびゅうと強い風が頬を打って、下に見える雲が後ろに向かって走っていく。
(下に、雲!?)
ありえない、ありえない。そう脳が現実の認識を拒絶する。
上空何千メートルか分からない。テレビで見たスカイダイビングのような光景が目の前に広がってる。
勿論、背中にパラシュートなんて背負ってない。それなのに、容赦なく、体が重力に任せて落ちていく。
「夢だ。夢だ。夢だ。こんなの夢だっ」
でも、夢じゃない。そう全身の感覚が叫んでる。
切り裂くように冷たい空気も、強すぎる風も、服がバタバタとうるさく鳴るのも全て現実感がありすぎる。
私は持って行かれそうになるカバンを必死で抱きしめた。
(助けて!)
そう強く願うけど、都合よく心当たりなんてある筈ない。さっきから起こってること全て、一から十まで理解不能だ。
ただ、一つだけ縋れそうな『誰か』に向かって叫んだ。
「私を呼んだんでしょ!? 責任取ってよ神様――ッッ!」
『心得た』
そう、応えたのは、白い世界で私を呼んでいた柔らかい声。同時、
眩しく白い光が空に弾けた。
ふわりと体が温かな腕に抱き留められ、甘い香りが私を包む。何度も呼ばれた声が、至近距離から耳を打った。
「――まさか邪魔だてが入るとは思わんでな。健勝で何よりだ。我が巫女よ」
高い鼻筋、金色の瞳に縁どる睫毛。重力を無視して柔らかくたなびく緩いウェーブの長髪が、光を反射してキラキラとダイヤモンド色に輝いている。
白い衣を纏った、この世のものとは思えない美形が私を抱きしめていた。
さっきまでの冷たい空気も痛い風も、まるで彼の甘い花の香りに阻まれたみたいに届かない。
地面から遠く離れた場所にいる状況は変わってないのに、絶対的な安心感に私はほうっと息をついた。綺麗な顔が視線を合わせてこちらに微笑む。
「我は創世神。光神イルシェイムと呼ばれしもの。世界を滅ぼさんとする闇を封じるため、湊春花、
「あの、呼び寄せたって……ここは、異世界なんですか?」
「そうだ。春花、見よ」
空に浮かんだ浮島の間をドラゴンが飛んでいる。遠くには鋭い剣のように
そこかしこに立ち昇った輝く光の柱はまるで巨大な噴水みたい。
「綺麗!」
それは正に、幼い頃に夢見たようなファンタジーの世界。
思わず身を乗り出すと、彼はゆっくりと私を腕から下ろしてくれた。
不思議と、怖さは感じない。トン、とある筈が無い地面の感触が靴の裏に返ってくる。イルシェイム様は、私を支えるように腰に手を回し、片手を繋いでくれた。
まるでエスコートするようなポーズ。男性に免疫の無い私はドギマギするばかりで、どうしたら良いか分からない。
(まるで恋愛映画の主人公みたい)
そう、一瞬だけ思ったけれど、私は彼女たちみたい綺麗な格好はしていない。シチュエーションは素敵だけど、所詮はバイト帰りの一般人だ。
「もっと綺麗な格好なら良かったのに」
そんな感想だけがポツリと漏れる。手を繋いだ彼は不思議そうに首を傾げ、豊かな髪と白い服がふわりと揺れた。
「衣服が気になるのか?」
「その……素敵な世界ですけど、私はちょっと、似合わないかなって……」
だって私はスーパーのしがないバイト店員。白いシャツに黒いズボン、運動靴。地味な一つ縛りの髪だって、煌びやかな世界には一つも似合ってなかった。
彼が隣で軽く頷く。
「ふむ……人の子はそのような事を気にするのか。なれば、」
そう言って、指を振った。またパチンと光が弾ける。今度は目を焼く程では無いけど、一瞬だけ眩しさに瞬きする。
すると――
「!」
「服の意匠は其方の頭の中から借りた。これで憂いは晴れたかな?」
そこには、いつもの私の服はどこかに消えて、代わりに煌びやかな衣装が風にそよいでいた。
ハーフアップにされた髪に艶やかなリボン。首には金色に輝く宝石の付いたチョーカー。耳にもイヤリングが揺れている。
「え!? これってっ」
動揺して一歩足を踏み出せば、濃いグリーンのワンピースが風を含んでふわりと広がった。
腰はコルセットみたいにきゅっと締まって、お姫様のようなパフスリーブに長い袖。さっきまでスニーカーを履いていた足だって、今は可愛い編み上げのブーツ。
そう、本当に、思い描いてたファンタジーの主人公みたい。
私は思わず興奮して息を呑んだ。
「凄い! 凄い! 夢みたい!」
「夢ではないぞ。気に入ったか?」
「はい! こんな綺麗な格好……初めて」
舞上がった私はスキップする気持ちでに異世界の空を歩く。そうすれば、一歩、一歩、スカートが空に広がって、ヒールの靴底が空気を踏む。
私は煌めくファンタジーな異世界の空をゆっくりと飛びながら降りていく。
イルシェイム様のダイヤモンド色の髪がふわふわと揺れて、私達の後を金色に煌めく光の粒子がキラキラと輝きながら追いかけた。
繋いだ手を軽やかに上げて、ダンスみたいにくるりと回る。
「ありがとうございますイルシェイム様!」
「良い。我が巫女がこの世界を好いてくれる。それ以上に喜ばしい事はない」
ゆるんだ金色の瞳は目を合わせていると溶けてしまいそう。
思わず視線を逸らして、足元に近づきつつある遠くの森を見つめた。
たぶん私の顔は耳まで赤くなってると思う。
男性と話す事だって少ないのに、こんなに整った美形に見つめられるなんて心臓に悪すぎる。私はごまかすみたいに、風に揺れる自分の髪を押さえた。
「本当に、すごく……きれいです。驚いたけど、私、召喚されて良かった、って思います」
きっと、こんな素敵な景色も、服も、私には一生縁が無かったから。
彼がぎゅっと繋いだ手に力を込めて、私の心臓がドクンと跳ねた。
低い声が耳に響く。
「召喚中に其方が世界の果てへと飛ばされ、どうしたものかと思ったが、我が巫女であればこの先も安心だな」
「え? それって、どういう――」
聞き返すと同じタイミングで、ガクンと体が揺れた。
ゆっくり飛んでいた筈の体にうっすらと、現実的な重力が戻って来る感覚に背筋に冷たい汗が伝う。
「あの……い、イルシェイム様?」
「うむ。そろそろ時間切れのようだ」
「時間切れ!?」
「不意の事態とはいえ其方と会話できた事、嬉しく思うぞ」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいっ。時間切れってどういうことですか!?」
「我は創世神。故に、力を振るうには
「えええ!?」
空に投げ出される前に見た景色が脳裏に過る。あれが聖石だったのだろうか。絶賛上空から落下中の現在、そんなものは当然無いわけで……。
イルシェイム様は私の焦りなど全く理解していない様子で微笑んでいる。
「其方の呼びかけに応えはしたものの、神殿より遠き地である此処では我が神力は使えぬ。代わりに巫女に授けし力を使ってこうして飛んでいたのだが、其れにも限りがある」
「か、限り?」
つまり、神様の力で飛んでると思ってたけど、実は私が授かった力を使ってただけで……
(それが、今切れかけてるってこと!?)
ロマンチックな空気が一転、危うくなった足元にお腹がヒュッと竦む。
まだ地面まで東京タワーの倍くらいの高さがある。話してる間にも徐々に受ける風は強くなって、必死で空を走っても一歩毎に落ちるスピードは早くなる。
「いいい、イル様!? 追加で力をいただく事とかできないですか!?」
「其方の力は十分に残っておるぞ。限りがあるというのは力不足ではない。力を制御している我との繋がりが途切れかけているという事だ。地球の言葉で言えば『圏外』、というやつだな」
「圏外!? そういう大事なことは、もっと切迫感を持って言ってくださいよ!」
「そうか。うむ。次からは気を付けよう」
「次まで私が生きていればですね!?」
最初に落とされた地点より低くなったとはいえ、人間の感覚では完全に即死圏内だ。というか大抵の生物は死ぬ。
(もしかして、この神様って人間の感覚を分かってない!?)
彼に安心感を抱いていた自分を殴りたい。人間の耐久力が分からない神様なんて不安要素以外の何物でもない。
ゾッと過った悪い予感に、私は早口で彼にまくし立てた。
「と、とにかく、地面に私の足を付けてください! 私の授かった力とやらをどれだけ使っても良いので、早くッ」
「もう観覧は良いのか?」
少し残念そうにも見える美形の顔には同情したくもなるけど、今はそれどころじゃない。
「十分楽しみましたから早く! 少しでも早く降りたいです!」
「心得た」
彼にぎゅっと体を抱えられて空を駆ける。
私が走るのとは比べ物にならない程のスピードだ。風を纏って一歩進むごとにみるみる地面が近づいてくる。
私は振り落とされないように、その腕を強く握り絞めた。
向かっているのは、森の中に少し開けた花畑のような場所。
直前まで纏っていた風の余波で花弁が派手に舞う中、足先から崩れ落ちるように私はへたり込んだ。
「地面……地面だ。良かったぁ」
もう空を飛ぶ経験なんて一生したくない。トラウマになりそうだ。
私を下ろした彼の手が離れていく。
「慣れぬ力の行使で疲れただろう。ゆっくりするが良い」
「イル様、ありがとうございます」
「良い。良い。それでは、時間のようだ。健闘を祈るぞ。我が巫女よ」
そう言って。
今度こそ、止める間もなくイル様は光の粒になって、パチンと電源でも落ちたように消えてしまった。
呼び止めようと思った私の指が虚しく宙を掻く。
「そんな―――――――っ!?」
残されたのは私と、花畑。それから周りを囲む黒い森。なんだか木々は妙に不気味だし、ギィギィと嫌な鳴き声が響いてる。
「嘘ぉ……」
空から見た世界はあんなに綺麗だったのに、森の向こうにはどう考えても好意的ではない気配。なのに、私が持ってるのはバイト用のカバンと、イル様がくれた綺麗なワンピース一式だけ。
「……私、もしかして、やっちゃいました?」
へたりこんだ体に力が入らないのは、地面に付いて安心したからだけじゃない。
「ぁ……」
急に強い眩暈がして地面に手を付く。
水泳の授業が終わった後の十倍はあるような疲労感と眠気。全身の力が強制的に抜けて、貧血の時みたいに目の前が真っ黒に染まっていく。
「私の力を使ったって……こういう、」
呟きながら花畑に倒れ込む。
そして、異世界召喚初日。私の意識は暗転した。
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