心をほぐす味

あおさだ

 朝の日差しで目が覚めた。

 カーテンから覗く光は部屋の床を照らしていて、穏やかに目覚めの時を示していた。

 頭痛のする頭を和らげる為に眉間を右手で押しながらベッドから起き上がる。

 床に脚を付け、立ち上がり両手を天井へと向け伸びをすれば、多少は気怠さがマシになったように思う。

 いつも通り自室の扉を開け、廊下に出て、ふと部屋を振り返る。

 そこは、ベッドと勉強机、そしてクローゼットしかない、殺風景な部屋だった。

 俺の部屋は二階にあり、それは幼い頃俺が二階の奥の部屋がいいと我儘を言いそのまま可決され、それ以降この定位置は変わらない。

 昔の事を思い出し、一度瞼を伏せてから部屋の扉を閉めた。

 そのまま廊下を進んだ先にある階段を降りる。

 階段を降りていくほど、下の階の音がより鮮明に聞こえてくる。

 グツグツと煮込む音と、コツコツと何かを切る音。

 そして、テレビから流れている朝のニュース速報だ。

 今見ているのはきっとあのアナウンサーが進行している番組だろう。

 よく聞こえる訳ではないが、いつもこの時間に流れている番組はこれしかない。

 懐かしさを覚えながら、階段を降りきり、一階の廊下をほんの少し歩いた先にある、音が聞こえてくる扉を開ける。

 台所では母さんが弁当を作っており、父さんが出勤の身支度を整え、テレビを見ながら朝ご飯を食べていた。

 俺が来た事に気付いた母さんが、こちらを見て一言

「おはよう、そうすけ」

と朗らかに微笑んだ。

 それに続いて父さんが一泊遅れて

「おはよう」

とこちらを見ずに荘厳な声を響かせた。

 俺は思わず、ぼーとして、幾分か間を置いた後、俺が言っていない事を思い出し、慌てて

「おはよう」

そう言えば、母さんはこくりと優しげに頷いた。

 それが、とても現実には思えなくて、すぐに日常に戻った両親を見つめていた。

 そして、いつまで経っても動かない俺を見て可笑しそうに笑い。

「早く、顔洗ってきなさい」

 そう言って俺を促し、言われた言葉の通り再び廊下に出て階段とは反対側の左手にある洗面所で顔を洗い、そばの箪笥の上に置いてあるタオルで顔を拭いた後リビングに戻る。

 リビングに入りふと机を見れば、父さんの斜め前に配置されている椅子の前に、お味噌汁とご飯、それからお漬け物や煮魚が置いてあった。

「お腹、空いているでしょ? 身体に響かないように、ゆっくり食べてね」

 母さんが作業をやめてこちらを振り向きそう言うと、母さんは弁当箱にご飯を詰めていく作業に戻った。

 うん、とこくりと頷きながら自分の席に座り箸を手に取り、小さくいただきますと言えば、父さんが母さんに代わってどうぞと言うから思わずクスッと笑ってしまった。

 そして、震える手を抑えながら、左手でお味噌汁のお椀を手に取り、そっと口に近付ける。

 ズズッと吸い込めば、柔らかに広がる温かい出汁と味噌の風味に、ほろりと雫が垂れた。

 そうだ、確かに、こんな味だった。

 続いてお味噌汁に入っている具材を食べる。

 心の芯からじんわりと温まっていくのを感じた。

 一度お椀を机に置き、俺の大好物である鯖の煮付けを箸で崩し口に持っていけば、これまた懐かしい味に、鼻の奥がツーンと痛くなった。

 その味に、この雰囲気に、ああ、やっと、実家に帰って来たんだと実感した。

 ほろりと広がる甘辛い味は、小さい頃からの俺の好みで、朝、学校に行きたくないと駄々を捏ねる俺に呆れたようにした母さんが、いつの日からかこれを出すようになった。

 それ以降、朝駄々を捏ねなくなった年頃になっても、時々朝ご飯に出てくるようになった。

 一つ一つのピースが嵌るように、また、ぽつりぽつりと雫が垂れ、ついにはダムが欠壊したように、大粒となって溢れ出した。



 俺が実家に帰って来たのは、昨日の、日付で言ってしまえば今日、深夜を廻った後だった。

 土砂降りの雨の中、傘を差さずに仕事着のまま帰って来た俺を二人は黙って家の中に招き入れた。

 上からどさりとタオルを被せられ、粗方拭かれれば流れるようにお風呂へと押し入れられた。

 髪をタオルで拭きながらリビングに戻れば、ほっとしたような表情の二人が居た事をはっきりと覚えている。

 正直、まだ絶望の淵に居た俺は、二人がなぜその表情をしているのか分からなかった。

 端的に言えば、新卒で入った会社は俺に合っていなかった。

 朝早くに起き会社に向かい、パソコンと睨めっこして完成させた資料を上司に見せれば、怒られる。

 残業しても減らない隣に積み重なる資料を見て、エナドリを飲み、またパソコンと向き合う。

 金曜日には、上司の誘いを断れず居酒屋で馬鹿騒ぎする上司に相槌を打ったり無理にテンションを合わせたりした。

 唯一の親友である同僚の松田と愚痴をこぼし合いながら鬱憤を晴らしてはいたが、それでも苦しさは増すばかりで。

 そんな日々の繰り返しが、徐々に俺の神経を削った。

 そんな中、一つの事案が俺に傾れ込んでくる。

『君の日頃の行いが部長に認められてね。次のプロジェクト、君に任せるそうだ』

 その言葉を課長から言われた時、チャンスだと思った。

 ここでこのプロジェクトに成功すれば、部長や社長から評価され昇格出来るかもしれないし、できなかったとしても評価は上がるだろう。

 そんな気持ちで、この生活から抜け出したくて、俺は大きく頷き、返事をした。

 実家には頼りたくなかった。良い会社に就職出来たと躍起を巻いていたし、何よりも心配性な二人を心配させたくはなかった。

 だからこそ、会社近くで駅近の社員寮に態々引っ越したし、生活習慣が悪化している事をバレないようにと、実家には出て行ったきり帰っていなかった。

 その日はそのまま帰り、プロジェクトに必要な情報を軽く集めていた。

 プロジェクトをどう進めるか考え資料を作りつつも出勤した次の日、会議室から課長と同じ部署の松田の会話が聞こえた。

『この資料、君が作ったそうじゃないか? 綾部さんが作ったと思っていたが、まさか君だったとは。今回のプロジェクト、もしかしたら君の主導になるかもしれない。そのつもりで頼む』

『本当ですか!? ありがとうございます!』

 その会話に、喉奥がひゅっと鳴った。その話は俺主導ではなかっただろうか。

 確かに、こういう資料があればいいとは話したが、提案したのも俺だし資料を作ったのも俺だった。

 俺の評価を横取りされたと知り、ショックを受ける。

 俺が会議室に入り込んで、問いただせたらよかったのかもしれない。

 だが、仲良くしていた松田に裏切られたような心地になり、そのまま業務に戻った。

 定時で切り上げ、社員寮へと戻る。

 いつもは社員寮に入るというのに何故か通り過ぎ、気付けば実家の前に居た。

 心配させたくなくて帰って来ていなかったというのに、絶望に堕ち、無意識のうちに帰って来てしまったのだ。



 昨日のうちは、悲しいという感情が湧いてこなかった。

 ただ絶望感に苛まれ、感情が働かなかった。

 だが、実家に帰って来て温かいご飯を食べれば、思い出したように溢れて来た。

 人の優しさに触れたのはいつぶりだろう。

 この家を出て約二年、両親から無条件にくれる愛情が恋しくて仕方がなかった。

 でも、自己嫌悪に陥った俺は、両親の愛情が苦しくも感じていた。

 送られてくる心配するメッセージが、また、心を苦しくさせた。

 母さんが俺の背をぽんぽんと優しく叩く。

 父さんが優しく箸を持ったままの俺の右手手を握ってくれる。

 いつの間にか近くに来ていた二人が、また俺を甘やかした。

 その優しさが、心をもっと痛めつけた。

 ぼろぼろと溢れてくる涙が、もっと勢いを増す。

 両親が、俺を優しく守るように抱きしめた。

 もっと、苦しくなった。

 悲しいという感情の奥に、苦しくて心が張り裂けそうなほど痛いその奥に、確かな温もりを感じた。

 そこで、俺は気付いた。

 痛いのは、両親の愛情ではなく、俺がずっと叫んでいた感情だと気付いた。

 押さえつけていた感情が、ダムから溢れるように、欠壊するように、涙と一緒に流れて来ただけだった。

 そう気付いた途端、昨日のあの二人の会話から止まっていた俺の時が再び色を持って動き始めたように思えた。

 あの二人の会話は、きっかけに過ぎなかった。

 きっと、俺はもう疲れていたのだ。

 その傷口を抉ったのがあの出来事だとしても、俺はもう限界だったのかもしれない。

 二人の優しさと温もりに触れながら、そう感じた。

 暫く俺は、泣きやめそうになかったのだ。


 年甲斐もなく泣き喚いてしまい、羞恥を感じながらも二人に離れてもらう。

 くすくすと楽しそうに笑っている母さんに、早くも席に座り直した父さん。

 いつも通りの光景に、俺も肩の荷が降りた。

 泣き過ぎて腫れた目元を持ち上げ、両親を交互に見る。

「……俺、ここに帰って来てもいいかな?」

 恐る恐る、そう聞くと、母さんはまた可笑しそうに笑った。

「貴方が帰る場所なんだから、いつまでも居なさい」

 その言葉に、流しきった筈の涙がまた溢れそうになった。

 次はここから通える会社を探そう、そう思ったのだ。

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心をほぐす味 あおさだ @aosd24er

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